不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

カンタベリー物語 料理人の話/チョーサー

料理人の話の序

料理人は家扶の話に大受けし、自分も冗談話をすると言う、宿の主人は、料理人が材料を減らしていること、余り物を温め直して何度も出すこと、客の巡礼が腹を壊していること、店に蠅が飛び回っていることなどを、冗談めかして指摘する。料理人は、自分の話が宿の主人のことであっても怒らないでくれ、でも別れる前にはきっと宿の主人に仕返しをすると言い、笑って、話を始めた。なおここで、宿の主人の名がハリー・ベイリーであることが明かされる。実在の人物で、結構な大物だったようだ。恐らくチョーサー自身の知り合いでもあっただろう。

料理人の話ここに始まる。

話の内容はこんな感じだ。料理人の街に、食料品やの徒弟パーキンがいた。彼は遊び人であり、店のお金を盛大にちょろまかしていた(金庫が空になったこともあった模様)。店の主人つまり彼の師匠は、パーキンをクビにする。暇になったパーキンは、遊び仲間の元に荷物を送る。この仲間は妻帯者だった。

……というところで話は唐突に終わる。未完なのである。ストーリーは動き出しすらしていない。なぜ未完に終わったかは学説上の議論があるらしい。序のパートで、料理人が話の中で宿の主人をやり込めることを示唆するが、もちろんそれも果たされないまま終わる。面白いかどうかを感じる前に話が絶たれるので、評価も不可能。

カンタベリー物語 家扶の話/チョーサー

家扶の話の序

粉屋の話は好評であった。しかし元大工である家扶*1にはこれが面白くない。当てこすりだったと思ったのであろう。家扶は、自分が下卑た話をすれば「高慢ちきな粉屋の鼻を明かして仕返しをするぐれえはわけはない」が、自分は年寄であまり冗談を言いたくないとグチグチ演説する。この演説が本当にグチグチしていて、長ったらしく要領を得ないので笑ってしまう。ここは本当に老人っぽいです。

宿屋の主人に「はよ要点を言え、もうグリニッジ*2だぞ(大意)」と急かされて、家扶は、やっぱり粉屋に仕返しする、だから下衆な話をしますとこれまたシャキッとしない繰り言をひとくさり述べた後、こんな話をし始める。

家扶の話ここに始まる。

ケンブリッジの近くにシムキンという粉屋がいた。丸顔で獅子鼻、禿の乱暴者で、穀物や粗粉も平気で盗む常習犯で、横柄家といわれていた。また彼の妻は、司祭が情婦に生ませた女で高慢ちき。そんな二人の間には、二十歳になる娘と、生後半年になる子がいた。妻の父である司祭は、孫娘に財産を引き継がせる気でいる。さてケンブリッジでは、ある学寮の賄い方の体調が悪化して寝込んでいた。シムキンはこれ幸いと、学寮から何度も粉を盗み出していた。学寮長は抗議するがシムキンは知らぬ存ぜぬを通す。一方、その学寮にいる二人の学生ジョンとアランは外出して遊びたい一心で、粉屋から粉を引き取りに行くという名目で外出許可を取って、シムキンの元に馬(学寮長の馬だ)に乗ってやって来た。アホな学生をからかう気分になったシムキンは、隙を見て学生二人の馬を逃がしてしまう。学生たちは慌てて馬を追い、粉を放り出して行ってしまう。シムキンはこれ幸いと一部をちょろまかすのであった。一方、何とか馬を捕まえた学生たちであったが、既に夜も近くなっており、シムキンの家に一夜の宿を乞う。その晩、一家と学生の計5人はご馳走でしたたかに酔い、爆睡した。一家と学生の寝所は近く、妻のベッド近くには赤ん坊が入っている揺り籠が置かれている。

さてここで、アランとジョンは、日中の災難を精算すべきとの無茶な発想に至った。まずアランは、粉屋の娘のベッドに忍び込んで朝までずっと姦ってしまう*3。一方、ジョンもアランを羨ましく感じて一計を案じ、揺り籠を密かに自分のベッドの近くに持ってくる。やがてトイレのために目を醒ました粉屋の女房は、戻ってくる際に、揺り籠を目印にした結果、自分のベッドだと思い込んでジョンのベッドに潜り込んでしまう。そしてジョンは粉屋の細君を一睡もせずに突いた*4。そして朝。アランは娘のベッドを後にしてジョンを起こしに行く。だが恐らく揺り籠のせいで、彼はシムキンのベッドに行ってしまう。相手がジョンだと思い込んで、娘と寝たことを喋ってしまったものだから、シムキンは激怒、取っ組み合いの喧嘩になった。結果、シムキンは寝ていた細君の上に倒れてしまう。目覚めて大騒ぎする細君。横にいたジョンも飛び起きてベッドから抜け出す。細君も起き上がって棒切れを手に、学生が着けるナイトキャップの反射光だと思ったものを殴打する。だがその光は、彼女の亭主、粉屋の禿げ頭であった。痛がる粉屋を尻目に、学生二人はまんまと逃げ出すのだった。

というわけで、ファルスである。コントのような場面における登場人物の動きは、粉屋の話よりも更にドタバタしていて、(シチュエーションさえ代えれば)現代でやってもそこそこ笑いが取れそうだ。語り手の家扶は初手からシムキンをぼろくそに描写しており、粉屋へ仕返しする気満々で笑います。粉屋への意趣返しという性格が全編にわたって非常に強い話だといえそうです。一応、粉屋は盗みも良くする性悪な男だとされているため、道徳上のエクスキューズも付けられています。ただ、彼の妻を表現する際にも棘があるのは引っ掛かりました。

粉屋の細君は出が少々うすよごれていたんで、溝の水みたいにぷんとにおいが鼻につきました。

聖職者の私生児ということでこう書いたのでしょう。でもこれはやり過ぎじゃない?  当時の常識に照らせばある程度はしょうがないのかもしれません。それでも、においがすると言うのは酷い。溝と訳されていますが要はドブ臭えと言ってますよねこれ。そう考えると、次世紀末から活躍し始めたチェザーレ・ボルジアがああいう性格になったのも、偏見に晒されて性格が歪んだ側面がありそうです。「お前の父ちゃん聖職者だよな(笑)」と言い放ってもまだスルーされる可能性がある。「お前、臭いよな(笑)」は相手が誰でも無事でしのげる自信がない。

また些事ですが、揺り籠の中にいるはずの生後半年の赤ちゃんが静か。描写すらほぼなされず、とても静か。生きてます?

なお先の粉屋の話とこの家扶の話は、学生が関与して、色恋沙汰と性交渉、暴力沙汰により巻き起こる騒動を喜劇として物語る点で共通するが、前者は大工(=家扶の元職)が騙されて馬鹿にされる一方、後者は粉屋が打ち据えられるのは好対照である。語り手も位置関係が対照的である。というのも、巡礼団の先頭を粉屋が、殿を家扶が務めているからだ。行例の先頭と殿で、こんな長い話を語る声が届くわけがないというツッコミは野暮なんだろうな。

*1:原語はreeve。元の意味は荘園の官吏であり、この時代だとそ荘園のために推挙された執事・代官といったところのようです。大工として信用を積んで、家扶に推挙されたという流れでしょうか?

*2:出発地のサザークからは10キロもない。どんなにダラダラ歩いても、騎士の話と粉屋の話を終えるのは無理だと思うがその指摘は野暮というものだろう。なお宿屋の主人は、グリニッジには悪い奴が何人もいると冗談めかして言ってもいる。チョーサーはグリニッジ住まいだったらしく、恐らくこれはチョーサーの友人である宿屋の主人(たぶん実在のモデルがいるとされる)の冗談か、あるいはチョーサー自身の韜晦ではないか。なおグリニッジ天文台は当時まだ影も形もない点には留意されたい。

*3:翌朝の娘の反応が明らかに恋する乙女なので、無理強いしたのではなく、忍び寄った後にちゃんと合意を取ったのだと思われる。そうであってくれ。

*4:「彼はまるで気違いみたいに激しくまた深く突き ます」とあるのでまあそういうことでしょう。ただし、細君が楽しく興奮したとは述べられているが、合意の有無は、娘の場合以上によくわかりません。

カンタベリー物語 粉屋の話/チョーサー

宿の主人と粉屋の間に交わされた言葉これに続く。

巡礼団の中で、騎士の話は気高いと好評だった。宿屋の主人は次の話者を修道僧に振ろうとするが、ビールで酔っ払った粉屋が割って入る。宿屋の主人に止められても聞きやしない。粉屋は、自分が間違ってもサザークの宿の酒のせいにしてくれと言う。そして、語る話は「大工と細君」の物語であり「学僧が大工をさんざんとっちめた」内容だと言う。元大工の家扶は、細君をゴシップのネタにするのはだめだと止めに入るが、粉屋にお前未婚者やから関係ないやろ(大意)と一蹴。チョーサーは、これから記す話は下品だが粉屋の話をそのまま書いただけなので悪く取らないでくれ、粉屋も家扶も他の連中も下衆だが自分を非難しないでくれ、冗談を真に受けないように、などと散々予防線を張る。

粉屋の話ここに始まる。

粉屋の語る話はこうである。オックスフォードの金持ちの大工ジョンの家には、しゃれものニコラスという、天文学*1を学ぶ学生が下宿していた。恋愛好きで外見もよく、香りにも気を付け、本や星儀、計算用の石なども整理整頓され、竪琴を弾いて歌をたしなむ。さて大家の大工は最近結婚したばかりで、妻のアリス―ンはまだ若い18歳の美人であった。粉屋は大工が彼女を「かごの中に閉じ込めていた」と言う。大工の留守に、ニコラスがちょっかいをかけて愛をささやき、アリス―ンとねんごろになってしまう――とは言ってもやることはキス程度で、口説きとじゃれ合いが優先されている。一方、教会の教区書記アブサロンもアリス―ンに惚れて、大工の家の窓の傍に行き、ギター*2片手に求愛の歌を歌い、恋の病ですっかりやつれてしまう。

そんな中、ニコラスとアリス―ンは大工に悪戯をしかけることを思いつく。ニコラスは一時的に自室に閉じこもって思わせぶりな態度を取る。学問のやり過ぎて頭がおかしくなったのかと心配する大工に、ニコラスは、占星術の結果ノアの方舟のような大洪水が次の月曜日に起きると大嘘を吐く。そして、大工は屋根の下に吊り下げた桶の中に避難すべしだと言う。ニコラスの目的は大工が桶にいる間に若妻と浮気することだから、大工夫婦が別々の桶に入らねばならないとも指示する。アリス―ンもこれに呼応してジョンに助けてと泣きつく。そして当日、首尾よく亭主を桶に引きこもらせた二人は、ベッドでいちゃつく。そうしていると、アブサロンがやって来て、アリス―ンに窓越しのキスをせがむ。アリス―ンは彼を笑いものにすべく、窓から尻を突き出した。アブサロンはそれが彼女の唇だと信じてキスをし、ごわごわした毛のようなもの*3が口に触れてギョッとして逃げ出してしまう。道々で彼は口を拭い、恋は冷め、復讐を誓い、鍛冶屋から焼いた隙の刃を借りてくる。再度大工の家にやって来たアブサロンを更に笑いものにしようと、今度はニコラスが窓から尻を突き出し放屁するが、そこにアブサロンは焼いた隙の刃を押し付けた。熱で尻の皮膚がはがれ、ニコラスは騒ぎ始める。これに驚いた大工はすわ洪水が来たと斧で綱を切ってしまい、桶が地面に落下→腕を骨折→気絶のルートを辿る。周囲は騒ぎになるが、目を醒ました大工は、恐らくは事実の経緯を説明しようとしたものの、ニコラスとアリス―ンから知らないふりと気違い扱いをされてしまう。周囲も大工のことなど誰も信じない。そしてこの出来事は見事、誰も彼もから笑われることになった。

下宿で連れもなくたった一人で一つ部屋に暮していまし た。

わざわざこう書くということは、当時の学生は下宿に複数人で入居する者だったのかもしれない。

語り手の粉屋は一貫して大工を愚か者扱いしており、浮気に走るニコラスとアリス―ンのことを悪く言わない。かなり早い段階で「人はその同類と結婚すべきなり」という格言を引いており、年甲斐もなく若い妻を娶った大工が悪いのだと言わんばかりである。具体的年齢が記載されていないとはいえ、まあさすがにどんな歳の差があっても、この仕打ちは酷いと思います。人の言うことを頭から信じるな、インテリはろくなもんじゃない、リア充は他人の痛みに盲目だなどなど、風刺が効いているとも思います。ただ粉屋自身は恐らく、大工でもある家扶を馬鹿にするためにこの話をしていると思しい。この二人には何かありそうです。

ともあれ、このエピソードの笑いは、ドリフなどでPTAが眉をひそめたあの笑いです(歳がばれますね)。嫌いな人は今も昔もいる一方で、好きな人はとても好きでしかもその人数が多い。だからこそチョーサーもこの物語を書いて採録したのでしょう。テレビもマンガもなく、本もない(あっても高いし識字率が低いから読めない人多数)、絵画もルネサンスすら迎えていないのでリアルなタッチのそれは望むべくもない。ヴィジュアル・イメージがなかなか共有できない時代、文字が読めるだけで結構なハイソサエティだったこの時代において、この物語はどう受け止められたのでしょうか*4

*1:当時のことだから天文学占星術と分かち難く結びついていた。ニコラスもまた、占星術師でもあったし周囲からもそうみなされており、そのことは物語後半ではっきり描かれる。

*2:14世紀に所謂ギターはまだない。原文ではgiterneだからまだその前身の段階ですね。アブサロンはヴァイオリンも上手いと訳されているが、こちらの楽器も14世紀にはまだない。こちらの原文はrubibleであり、これまたヴァイオリンやヴィオールの前身です。当時は盛んだったが今はほぼない事物について、勝手に現代品で代替して訳出するのはどうかと思います。こういうの他にもいっぱいありそうで困る。

*3:けつ毛だと思うが、この点は識者の意見も聞きたいと思います。当時のトイレ事情を考えると、もっと不潔なものがパサパサになったら……という可能性もないわけではないような。

*4:この点は恐らく『カンタベリー物語』どころかこの時代の全ての物語に言えることですが。

カンタベリー物語 騎士の物語/チョーサー

騎士に対する振りと、これに対する騎士の所信表明(出発するから話はよく聞いておいてくれよ、ぐらいなものだが)は総序の歌で済ませているため、このパートは最初から騎士の語りからスタートする。すなわち、チョーサー視点の文章は含まれていない。

騎士が語るのは古の物語で、四部構成である。

騎士の物語ここに始まる。

アテネの王侯にして支配者セシウスが、女人国スキタイを滅ぼし、その女王ヒポリタと結婚して、ヒポリタ及びその妹エレーネ姫と共にアテネへ凱旋しようとしている。その道中で、テーベの支配者クレオンの暴虐を訴える女性たちの訴えを聞き届けて、セシウスはクレオンを討つ。その戦いで、パラモンとアルシーテという二人の騎士が捕縛される。彼らは「いとこ(比喩かもしれない)」の間柄の、テーベの王侯に連なる高貴な人間であり、かつお互い刎頚の友と呼び合っていた。彼らはアテネの塔に幽閉される。そこでパラモンは、窓から見える庭に出て来たエミリー姫をを見て、一目惚れして叫んでしまう。アルシーテはパラモンの尋常ならざる様子を見て「どないしたんや(大意)」と訊き、パラモンは「あの美女に惚れたんだ(大意)」と返し、アルシーテは庭にいるエミリーに視線をやってしまう。その結果、アルシーテも見事にエミリーに一目惚れしてしまい、しかもそのことを即時パラモンに白状してしまうのだ。二人はお互いを裏切り者だと非難し合い、ここで二人は恋のライバルとなる。やがてアルシーテは、友人ペロセウス大公がセシウスに懇願したことで、釈放される。ただしその条件は、今後一生、セシウスの支配地に入るなというものだった。アルシーテは「じゃあセシウスの支配地に住むエミリー姫を見ることすら叶わないじゃん、今後も見ることができるパラモンが羨ましい(大意)」と嘆く。一方パラモンは「アルシーテは自由にテーベを闊歩してひょっとするとエミリーを妻にすることもできるかもしれないのに、俺は捕まったままだ(大意)」と嘆く。

ひとりは毎日愛する人を見ることはできますがいつまでも牢獄に留まらなければなりません。もうひとりは好きな場所にはどこへでも行けるのに、もはや二度と愛する人を見ることはできません。

まあ私も友人と同じ相手に惚れた経験がないわけではないので、アルシーテとパラモンの苦しい胸の内が全くわからないとは言わない。この二人が本当に胸が苦しいんだったらな。実際には二人の騎士は同日に一目惚れして同日にお互いの慕情を認識し、敵対関係に陥る。アルシーテ釈放に対する反応も、お互いに対する敵愾心と嫉妬心剥き出しであり、友情と恋の間にジレンマがあるようには見えない。二人とも見事に恋を優先します。友情? 何それ美味しいの? でもこれが人間の本質かもしれないなんて思ったり思わなかったりしました。いやあ実際、友情のために恋愛を諦める奴をほとんど見たことがない。皆さんも、友情のために諦める恋愛なんて本当の恋愛ではないとか思っているのではないかしら。この点は13世紀でも一緒なんですなあ。この物語の舞台は恐らく紀元前とはいえ、騎士道的な振る舞いが重視されるなどして、内実には同時代(14世紀)の常識良識が色濃く反映されているので、「騎士の物語」における登場人物の倫理観は14世紀のそれと解釈して良いと思います。

なお恋の対象のエミリー姫は、第一部では美しいことしか描写されません。性格が推測できるような描写はほぼないです。また彼女は言うまでもなく「姫君」です。虜囚のお二人はなんでこの雲の上の姫君にガチ恋できるんでしょうか。それともこの二人はそこまで身分が高いのか。まあエミリーの身分を知らない可能性もあるし、亡国の姫君にしてアテネの支配者の妻(元女王)の妹、という立場をどう理解すればよいかもよくわからないが。後者については21世紀の視点を持ち出すまでもなく、14世紀人からしても位置づけには難渋するでしょう。

第二部これに続く。

テーベで一、二年、嘆き悲しんで暮らしていたアルシーテは、夢枕にマーキュリー神が立ってアテネに行けと言ってきたので、飛び起きて早速アテネに潜入し、フィロストラーテという偽名でセシウスの宮廷に仕えるようになる。一、二年をエミリー姫の部屋付小姓として働き(キモ過ぎない?)、評判を得て、セシウスの近侍にまで出世。一方、パラモンは投獄から七年後に脱獄して、茂みに潜んだ。ちょうどこのとき、アルシーテは朝で気分が良いからとこの茂みにやって来て歌を歌う。不倶戴天の敵に仕える我が身、偽名を使わざるを得ない我が身、恋の苦しみを歌う。そこでこの声の主がアルシーテだと気付いたパラモンは、決闘を要求。アルシーテは受諾するが、逃亡中のパラモンの腹ごしらえや武装の準備もしてきてやるとして、翌日の再会を約束する。さてその翌日、二人は同じ場所にやって来て、武装を手伝い合ったりした後に決闘を開始する。勝負はなかなか付かない。この決闘に、近くで狩りをしていたセシウス(妃とその妹エミリーも帯同)が気が付きやって来て、とりあえず矛を収めさせる。パラモンはフィロストラーテがアルシーテであることをばらし、二人ともエミリーに恋をしていることをばらし、自分を死刑してくれ、でもアルシーテも殺してくれと懇願する。というわけで、今初めて事実を知ったセシウスは、パラモンの言う通り二人を死罪にすると宣言するが、妃とエミリーが二人を憐れんで涙を流し、一緒に来ていたらしい婦人たちも慈悲を乞い、セシウス公は頭が冷えて同情心を刺激されて翻意。今後自国に敵対しないなら許すとし、エミリー姫が二人と結婚するのは無理なのだから、一年後にそれぞれ百人の騎士を連れて来て馬上槍試合を行い、勝者(相手を殺すか、試合場から追い出すかした者)にエミリーを嫁がせることにすると宣言する。アルシーテとパラモンは喜色満面でセシウス公に感謝して、テーベへの帰路に着くのだった。

恋のために相手を殺すことには躊躇がないが、卑怯な手を使う発想がアルシーテ・パラモン共に全くないのは面白い。古代ギリシアならば卑怯な手をどちらかが使いそうなものであるが、これは騎士道精神が正義の道とされた中世に作られた物語だからか、二人とも嫉妬は苛烈ながら悪感情が尾を引かない。潔いとも言えるかもしれない。なお二人の事情をセシウス公に訴えるのが専らパラモンで、アルシーテが喋っている気配がないなのは、後の展開を考えると興味深い。

エミリー姫については、お前それでいいのか、という気はします。隠した恋心が七年は長いなあ。特にアルシーテさんは気持ち悪くないですか。いやまあ本人が良いんだったら良いんですけれど。

第三部これに続く。

約束した試合のため、セシウス公は、アルシーテとパラモンが巨大な円形試合場を造営する。円周1マイルで外堀を巡らし、柱の高さは60ヤード。神殿も付随する上に、神話の像や壁画で彩られて見る者を圧巻する。なぜか、この物語から見れば後代になるジュリアス・シーザー、大ネロ、アントニー*1も描かれているが、その死は星図で示されていたからという理由付けがなされている。そしてアルシーテとパラモンも、試合のためにそれぞれ百人の騎士を連れてやって来た。貴婦人のために戦うのは騎士道の誉れであり、試合に参加したいという希望者が引きも切らなかったようである。パラモンの仲間には、トラキア王リクルゴスがいた。アルシーテの仲間には、インドの王エメトレウスがいた。彼ら騎士たちは、アテネに宿泊する。そしてパラモン、エミリー、アルシーテは神殿にてそれぞれ祈る。パラモンはヴィーナスに「わたくしにわが愛する人をお与え下さいませ」と祈り、ヴィーナス像は震える。エミリー姫は、ダイアナ相手に、傷害乙女であることを誓っていたのに何てことだ、でもどうしてもということなのであれば「わたくしを最も望んでおられる方をわたくしにお与え下さいませ」と祈った。そうするとダイアナ神が顕現し、誰かはまだ言えないがエミリーを最も愛している人間と結婚してもらう(大意)とエミリーに伝える。アルシーテは軍神マルスに祈りを捧げ、マルスがヴィーナスと激しい恋をしたこと、その浮気現場でヴィーヌスの夫ヴルカーヌスが二柱に網をかけたこと(網で捕まえられて恥をかいた当事者のマルス相手に言及する必要あった?)、自分の愛をエミリーが嘉納するには勝たねばならぬことを語り、「われに勝利を」と祈る。そうするとマルス神殿のあちこちが震え、遂に「勝利」とのささやき声も聞こえる。一方、天界ではヴィーナスとマルスの争いが始まり、主神ジュピターはおおわらわで、サターンの神*2は悪巧みを始め、ヴィーナスに対して、パラモンがその愛する人を得るよう助力してやろうと言う。

試合場が巨大である。東京ドームは外周700メートルで高さ56メートル、東京オリンピック2020で建てたあの評判最悪の国立競技場の外周は1000メートル、高さ47メートル。ローマのコロッセオでは外周が500メートル台、高さが48メートル。ちなみにアテネパルテノン神殿が70×30メートルで柱の高さは10メートルちょい。試合場はこれらよりも大きい。やり過ぎではあるものの、諸元を突いてもあまり意味はない。「とにかくでかかった」ぐらいに解釈すればよろしいでしょう。

星座がどうこうという理由付けで、後代の人間を壁画に描いたりしているのは面白い。現代人からしてみればアホちゃう、という感覚であるが、13世紀において占星術天文学その他と同じカテゴリの「ちゃんとした学問」であり、この点は総序の歌でも登場人物紹介時に明記されている。だからここで読者が感じるべき感想は「んなアホな」ではなく「高度に発展した占星術天文学ならばそういうこともあるだろう」であり、「そんなところまで押さえているセシウス公とアテネすげえ」に他ならない。作者の指定する感想に読者として乗っかるのは基本的には業腹だが、今回はさすがに彼我の時代差が甚だしいため、言われたとおりに感心しておきます。

そして三者三葉の願い事が実に興味深い。「騎士の物語」のドラマ上のキーはここだと思います。いずれも微妙に願い事の言い回しが違うので、神々がこの間隙を縫ってくることは必定であるように思える。21世紀の読書人である私はそう勘づきますが、14世紀の人々はどう捉えたのでしょうか。英語とは文字が読める以上、物語経験値も高いだろうから私と同様に一定の予想は付いたのでしょうか。なお天上の諍いが、以前は熱愛の間柄であったヴィーナスとマルスとの間のものであるのは興味深い。ただし興味深いだけで、この点は後の展開でもあまりクローズアップされない。説明されないシンボライズが何かあるのかしら。

第三部のもう一つの特徴は、エミリーが遂に自分の言葉で喋った点にあります。第四部でも台詞はないので、物語全体で彼女の言葉が書かれているのはここだけです。理由はよくわからないが、一生処女のまま生きると誓っていたのですね。それで「試合に勝った方と結婚する」と義兄の大公に決められるのは可哀そうです。論理的には、二人が決闘していた際に慈悲を乞わなければ結婚しなくても良かったはずだが、見殺しにすべきだったとエミリーに言ってしまうのも人倫にもとる。そしてエミリーは、ダイアナの指示に平伏して受諾してしまう。自分の希望を神に祈っているので主体性がないとは言わないが、「処女でありたい」という第一希望ではなく、「自分を一番愛してくれる人と結婚するようにしてくれ」という第二希望を願っており、我は弱いです。女性の自己決定権は否定された物語であることがよくわかります。彼女相手にだけ、祈った神が直接現れているのは、貴婦人への配慮なのでしょうか。もちろん、現代でも通用するような配慮ではなく、男性都合の憐れみでしかないのは、お断りしておかねばなりませんが。

第四部これに続く。

アテネの五月の祭は盛大に開催された。その中で行われる馬上槍試合の参加者は、街のあちこちで耳目を引く。試合当日の朝、式部官がセシウス公の意志としてルールを公表する。殺してはならない。捕まえられた者は杭に留められる(つまりそれ以後は試合に参加不可)。勝利条件は大将が捕まるか、殺されるかである*3。試合会場では、セシウス公一行が感染する中、いよいよ試合が始まる。両者の実力は伯仲し熱戦が繰り広げられる中、エメトレウス王がパラモンを捕まえた。リクルゴスが助けに来るがあえなく落馬、エメトレウスもパラモンに与えられたダメージが元で引きずりおろされるが、結局パラモンは逃げられず、杭の所に留められてしまった。アルシーテ側の勝利であり、セシウス公は試合終了を告げる。天界ではヴィーヌスが嘆くが、サターンは地の怪物を馬の足元から飛び出させて、勝利に沸くアルシーテを頭から落馬させた。アルシーテは大怪我を負い、宮殿へと運ばれた。試合参加者は試合会場からアテネに戻り、セシウス公は彼らのために三日三晩の大宴会を開き、褒章も渡した。一方、勝利者アルシーテの怪我は致命傷であった。アルシーテは、枕元にエミリーとパラモンを呼び寄せ、悲しみを述べた後、エミリーの夫としてパラモンを推して、エミリーと叫んで息を引き取る。エミリーとパラモンは嘆き悲しみ、アテネ市民も悲嘆に暮れ、セシウス公は盛大な葬儀を営む。数年後、テーベを服属させることになったアテネの議会で、セシウスは演説してパラモンとエミリーを結婚させる。二人は幸せに暮らしましたとさ、と解釈できる段落でこの物語は締めくくられる。

第三部の微妙に異なる三人の願いがそれぞれ実現している。パラモンは愛する人を得た。アルシーテは勝利した。アルシーテが亡くなった以上、二人の騎士のどちらがエミリーをより望むのかという問いは無意味となり、エミリーの願いも叶えられた(第一希望の願いが最初から無視されているのは気になるが、ここでは繰り返すまい)。

最期に友情が見れてよかった、と言いたい気持ちもあるのだが、致命傷(頭部に加えて胸部も潰れている)を負ったのにアルシーテは結構粘った感があり、その理由はやはりまだ死にたくはなかった、エミリーを手に入れたかったのだろうなと思うと、単純に爽やかに読み終えるのも憚られる。そしてエミリーは、相変わらずそれほどの主体性が感じられない。落馬直前の勝者アルシーテには微笑み――しかも「女性は一般的に運命の女神に従うものだ」などと語り手の騎士に付言され、アルシーテが死んだら悲嘆は深い。でもそんなに交流なかったよね。加えて、まあ議会で長々と「結婚しろ(大意)」という演説を義兄とはいえ首長にぶち上げられては拒みづらいとは思うが、言われたとおりにパラモンと結婚してしまうのを見ると、モニョります。パラモンとそんなに仲良くもなってなかったですよね。パラモンは議会に呼ばれてテーベから来ているのだし(つまりアテネに住んでエミリーと日常的に合って親交を深める、なんてことはやっていない)。

あと、虜囚7年+試合まで1年+結婚まで数年ということなので、アルシーテとパラモンがエミリー姫を見初めてから最低でも10年経過しています。さすがに時間をかけ過ぎではないかと思いました。エミリーの姫(王侯)としての位置づけがよくわからないので、政略結婚で使われる人材なのか不透明ですが、でもまあ輿入れの話は出て来てもおかしくないわなあ、特に最初の7年間は、と思いました。試合までの1年はまあしょうがないです。予約が入ったようなものだ。やっぱり問題は最初の7年です。この間他の男に目を付けられず婚姻的な意味で放置されるということは、最初はエミリーはとんでもなく幼かったということでしょうか。どうもそんな感じは受けないんですよねえ。それとも、神への祈りの際に言っていた「乙女であり続ける」という姿勢を公言していたのでしょうか。それだと、「じゃあセシウスはなぜアルシーテかパラモンに娶らせようとしたのか」という問題が出て来てしまう。

総評等

起承転結が明快なのは見事だと思う。特に、神頼みでの言い方が今後の展開に大きな影響を与える第三部は、間違いなく「転」として機能している。何らかの含意が最も含まれている要素はここなのだと思います。三人の性格が出ている。特に、アルシーテとパラモンは違いが結構大きい。「彼女が欲しい」「競争相手に勝ちたい」では、結果は一見同じようでいて、全く違う願いである。実際、神の介入により、結果も全く異なるものとなった。

興味深いのは、アルシーテの恋愛観である。彼は一貫して、恋に切なさ、苦しみ、悲しみを感じているようなのだ。

一目惚れした時からして、これ。

アルシーテは一息、溜息をつくと憐れげな声で言いました、「あのむこうの庭を逍遥し ている女性の新鮮な美しさが突如としてわたしを殺してしまう」

釈放された時も悲しいとは言っているが、これはパラモンを羨ましがってのことだから除外し、次はフィロストラーテとして伺候後の茂みの中での嘆きだ。

愛の神は火の矢をひどく燃えたまま、わたしの正真正銘の、切ない心臓に突き刺したの だ。こうしてわたしの死は、生れる前から定められていたわけだ。 エミリー姫よ、あなたはわたしをその目で殺すのです。あなたこそわたしの死の原因なのだ。

マルスへの祈りの中身にはこういうものが混じっている。

*4の心に感ぜしその悲しみにかけて、わが激しき苦痛にも同様、憐れみを与え給え。わたくしは、あなたも知られるよう、若くして未熟、したがって生きとし生けるいかなる人よりも、恋のためにもっともひどく悩まされていると信じ ます。と申し ますのも、わたくしにこのような悲しみのすべてを耐えさせる彼女は、(後略)

今わの際に至ってはこれである。

いまわのわが悲しい魂は、最も愛するあなたに、わがつらき悲しみのすべてをその一つとしてとても告げることができませ ん。わが最愛の婦人よ。わが生命がもはやこれ以上続かないからには、 わたしはあらゆる人にもましてあなたにわが魂の奉仕を捧げます。 ああ、悲しい。この悲しみ、ああ。あなたのため、しかもかくも長く耐えた悲しみ の何と強いことよ。ああ、死よ、ああ。わがエミリー姫よ。ああ、われらが仲間との別れの切なさ。ああ、わが心の妃よ。ああ、わが妻よ。わが心の婦人よ。わが生命を絶つ 人よ。この世は何なのか。 人は何を得んと求めるのか。

パラモンと恋敵になったことが悲しい、苦しいと言っているのではない。恋そのものに悲哀と苦痛を感じている。彼の悲劇的な結末を予感させるこれ、確かに悲痛もまた恋の本質であるよなあと思わされました。正直、自分の過去の恋愛を色々思い出してしまったな。私が非モテだったからそう思うだけで、もっとモテる人は違うのかもしれない。でもまあ切ない想いが詩や音楽に込められているケースは世に溢れているから、私が社会の中で圧倒的少数派だとは言えないでしょう。そしてそれは、14世紀でも同じだった。

恋愛至上主義がはびこる昨今、恋愛はとかく肯定的に、微笑ましく捉えられがちですが、精神をすり減らす労苦でもあり、常に切なさが付きまとうものでもあります。その点をよく押さえた物語であり、伏線としても見事だと思いました。もちろん、恋愛を否定的に捉えたいと言ってるわけじゃないですよ。

ここまで憂うことはなく、恋する相手を得ることにひたすら邁進した(でも友が死んだ際には嘆いた)パラモンがエミリーと結婚したのは、エミリーにとっては比較的幸せなことだったのかもしれませんね。恋愛は悲痛なものとはいえ、それがメインになってしまう人間は概ね面倒くさいと相場が決まっている。

*1:ユリウス・カエサルローマ皇帝ネロ、第二回三頭政治の一頭にしてクレオパトラの情夫マルクス・アントニウス。言うまでもなく、いずれも古代ギリシアの時代から後の時代の人物である。

*2:悪魔王とされるサタンではなく、その語源であるサトゥルヌス=クロノスと思われます。

*3:殺してはいけないのか、殺してもいいのかどっちやねん、と言いたくなるが、大将だけは違うんですかね。或いは不慮の事故も容認するということなのか。

*4:マルス神のこと。

カンタベリー物語 総序の歌/ジェフリー・チョーサー

 14世紀に英語で書かれた古典文学の日本語への完訳版を読み始めた。感想等を備忘録的にメモする。

 4月、恐らくチョーサー自身である語り手が、カンタベリー大聖堂への巡礼を思い立ち、ロンドンのサザークにある宿屋に滞在する。そこには、同じくカンタベリーへ巡礼に向かう、騎士・聖職者・貴族・平民などがいた。チョーサーは一人一人を丁寧に描写していくが、特に聖職者に対しては風刺が効いている。ただし毒々しくはなく、柔らかい語り口は、年代相応に大仰でまわりくどくはあるとしても、想像よりも遥かに、圧倒的に読みやすい。チョーサーに一通り個別に描写された彼らは、巡礼団を形成している。ただし、サザークに来る前にグループになっていたのか、それともサザークに来てから集団になったのかは判然としない。チョーサーは順番にそして宿屋の主人ハリー・ベイリーが、旅の行き帰りで全員が2つずつ面白い話をし、誰の話が最も面白かったかを競おうと提案する。勝者には、(恐らく帰って来た際に)宿屋でごちそうが奢られる。私の読んだ限り、奢るのは「全員で」である。そして裁定するため、宿屋の主人もまた巡礼に参加するのだった。30人のグループの中からクジで決まった最初の語り手は、騎士だった。

 ロンドンからカンタベリーまでは60km超。特に急がずのんびり徒歩で行ったとしても、30人が物語を滔々と語る時間は実際にはない。そもそも街道沿いに歩いている最中に、他の29人全員の耳に話を届けるのは無理だろう。まあこういったツッコミは野暮なだけか。なお、勝っても得られるのは宿屋での食事だけ。豪華なものだったとしても、賭けの対象としてはショボい。費用負担も、他の29人の割り勘であれば、巡礼に行けるほどの平民であればそこまで重くは感じられないだろう。しみったれてない?と思ってしまった。史上名高い作品ながら、物語の大枠ではそんなに夢のない賭け事である。

 また、グループ参加者同士の関係性がよくわからない。この巡礼で初対面となる人が多そうではあるが、主従や親子を除いても、以前からの知り合い人であることが仄めかされている気がする人もいる。巡礼者グループ内の人間関係は、チョーサーの各人に対する感想で終始すると言っても良い総序の歌だけではよくわからないのかもしれない。物語はまだ始まったばかりなのだ。なお書かれてから600年以上経っていて、同時代の人なら説明なしでもわかった事項がこちらにうまく伝わらない記述も多くありそうではある。現代人が言う「ツィートした」が昔の人には通用しないし、たぶん10年後の若者にも通用しないように。

 ともあれ、これは「枠物語」であり、各人が語る物語は入れ子構造となって、全体のイメージが説話集然とするのはもはや確定的ではないかと思う。後代における長篇小説的な要素が生じるのかどうかも、併せて検証していきたい。

 

NHK交響楽団第1932回定期演奏会

2020年1月22日19時~ サントリーホール

  1. ウェーバー:歌劇《オリアンテ》序曲
  2. リヒャルト・シュトラウス:四つの最後の歌
  3. リヒャルト・シュトラウス交響詩英雄の生涯》Op.40

 コンサート・マスターはゲストのライナー・キュッヒル。このキュッヒルの技術が低下していて、《英雄の生涯》では惨状を呈しました。2011年に尾高忠明N響で《英雄の生涯》を聴いた際も、彼はゲスト・コンサートマスターとしてこの曲でソロを弾いていましたが、その時とソロの解釈は同じです。指揮者がコントロールしているソロ前後のテンポはほぼ無視して、早いテンポを設定し、ぐりぐりキリキリと鋭い踏み込みで切り込んでくる。細部に至るまで音符は明確に弾かれ、各楽想も異様に細かく弾き分けられて、表情もくるくる変わる。自然、ソロが表す英雄の妻は、早口でまくし立てる神経質で気の強い、ちょっとエキセントリックな人になるわけです。この解釈もなかなか面白くて聴き応えがあります。だがしかし、それもちゃんと弾けたらの話。フレーズの終りで悉く音を外すのはちょっと勘弁してもらいたい。《四つの最後の歌》でのソロは好調でしたが、《英雄の生涯》は本当にダメダメ。そろそろこの曲でコンマスやるのは止めた方がいいかもしれません。この曲は、弾けない人は弾くべきではない曲だと思います。
 ルイージ指揮のNHK交響楽団は、特にトゥッティが金属的でした。鳴りは良いんですが音が硬い。《四つの最後の歌》や「英雄の隠遁と完成」ではさすがに柔らかいサウンドに包まれる瞬間もあったのですが……。ルイージの解釈は、各声部や各楽器の違いを際立たせるものではないし、各楽想の違いを強調するものでもなく、全体の流れとうねりの中で熱狂・感傷を煽るというものだから、金属的な響きというのはちょっと具合が悪いように感じました。が、まあこれも私の席やら体調やらの問題かもしれません。会場は湧いていました。
 なおオポライスは、オペラティックな歌い口でした。声自体もそこまで美しくない。《四つの最後の歌》はヤノヴィッツの録音で馴染んだため、こういう歌唱は好みではないのですが、それでもなお、歌詞に対する感情移入や音楽の流れへの反応はとても素晴らしくて、それに声の伸びも再上質であり、こういうのも十分ありだと思わせてくれました。まあ実演で聴くとこういう感想に落ち着くことが多いんですが、オポライスはその中でもトップクラスでした。オペラ歌手は必ずしも「美声」一辺倒である必要はないということを痛感いたしました。一昨年のローマ歌劇場来日公演、行っておけば良かったかなあ。

ジャンルカ・カシオーリ/トリフォニーホール・グレイト・ピアニスト・シリーズ

2020年1月20日(月)
すみだトリフォニーホール:19時〜

  1. ベートーヴェン:6つのバガテル Op.126
  2. ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第12番変イ長調 Op.26《葬送》
  3. ベートーヴェン:劇付随音楽《シュテファン王》序曲 Op.117
  4. ベートーヴェンピアノ協奏曲第2番変ロ長調 Op.19
  5. (アンコール)ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調 Op.58 より第2楽章

 本名さんの指揮は初めて聴きましたが、なかなか良い。生命感ある指揮ぶりで、解釈は常套的ながら楽しめました。軽快に演奏しても全く問題のない曲を、軽快にやっていたので、より重厚な曲だったらどうなるのか興味があります。機会があれば行ってみたい。
 さて肝心要のカシオーリですが、球を転がすような美音で、タッチの粒も揃っていり大変美しい。指もよく回っていて曖昧な個所はない。というか、どの音符もくっきりと浮かび上がらせていました。それでいて、全ての音符にアンダーラインを引いた文書を見せられるような窮屈さもなく、自由で快適な空気も流れる。なかなか素晴らしい演奏だと思われたわけです。ただし時折、妙なアゴーギクやルバートを付けて、スムーズな一定の曲の流れが停滞したり折れ曲がったりする場面がありました。私にとってはこれは謎で、意識が悪い意味でこれらの箇所で揺さぶられ、演奏に乗り切れませんでした。あと、音楽作りがこれとても平面的に聴こえました。構造体としては浮かび上がってこないというか。これさえなければなあ……。なおこの特徴は、バガテルとアンコールの第4協奏曲(の緩徐楽章)ではあまり目立たない。中期や後期では一定のリズム/ペースでやらなくても違和感は生じない、ということなんでしょうか。初期作品でこれをやられると、様式感が破壊されているような気がしました。これに庄司紗矢香はヴァイオリン・ソナタで合わせるのか、と思ってしまったのも本音です。彼らの共演は実演録音問わず聴いたことがないんですが、ちょっと興味が出てきました。

NHK交響楽団第1930回定期演奏会

5年以上の間が空きましたが、久々の更新です。

2020年1月12日(日)
NHKホール:15時〜

  1. マーラー交響曲第2番ハ短調《復活》

 

 前日11日のネット上での評判が、特にアンサンブルについて否定的だったのでビクビクしながら行ったのですが、今日は特に問題なしでした。もちろん若干のミスはありましたが、アンサンブル大で崩れる場面はほとんどなかったように思います。第1楽章もばっちり。
 演奏は素晴らしいもの。テンポを伸縮させるエッシェンバッハの音楽作りにオーケストラがよく食らいついていました。熱っぽくも、ぶよぶよした感触が、最初から最後まで貫徹されていて、しかもオケの鳴り自体は非常にいいので、聴き応え満点です。常に音が暖かいのも特徴でした。白眉は第2楽章と第3楽章だったのではないでしょうか。弦の分厚さが印象的です。声楽は藤村さんが流石の出来栄え。新国立劇場合唱団は、この団体らしく、精度よりも厚みで聴かせる(精度が悪いと言っているわけじゃないですが、優先順位は明らかに厚みだったというニュアンスです)。エッシェンバッハの芸風に合っていたと思います。モンタルヴォは初めて聴きましたが、特段悪くもないんですが、藤村さんに比べると位負けもいいところで、耳をそばだたせる瞬間も皆無、正直いなくても良かった。急な代役なのでこれ以上は責めません。
 いずれにせよ、エッシェンバッハの芸風が非常に面白く聞けました。このぶよぶよの果てには、フルトヴェングラーがいる気がするんだよなあ。彼がマーラー交響曲を振っていたらこうなったんじゃないか、と思ったり思わなかったり。ま、妄想です。

ロリン・マゼール/バイエルン放送交響楽団 シューベルト:交響曲第8番ハ長調《グレイト》

 2001年3月18日、プリンツレーゲンテンシアターでのライブ録音。13日と16日と合わせて、同一会場でシューベルトの全交響曲連続演奏会の一環として演奏&収録された模様である。この会場はヘラクレスザールよりも狭く、客席数は1300程らしい。シューベルト交響曲に合わせた会場設定だったのだろうか。
 堂々たる演奏である。どっしり構えてオーケストラを壮麗に鳴らしており、テンポも中庸。序奏部も21世紀にしては遅めで、ピリオド楽派などいなかったかのようだ。弦はレガート〜レガート気味に鳴らされており、画然とした演奏という印象は薄く、各場面はなだらかに滑らかに移行していく。よってどちらかというとメロディー重視路線だな、という感触が強まっている。テンポの変化も付けられてはいるが、それらはあくまで自然に、楽想の切れ目というか転換点に頻出、緊張の高まりや弛緩を巧みに表現している。それはこれ見よがしに演奏効果を狙うというよりも、音楽の流れを重視した結果だと思われる。そしてオーケストラ自体も大変立派で素晴らしく、木管の鳴りっぷり、弦のブレンドされ切った音色など、管弦楽を聴く楽しみを堪能できる。
 ただし――と、段落を変えて、私の妄想でしかないかも知れない感想を書き散らすが――指揮者はあのマゼールであり、細部まで指揮者一人が音楽を管理しており、しかもその管理が厳格で、一挙手一投足まで、その音を出している本人ではなく別の誰かの意思に従っている感覚が半端なく付きまとう。ただしそれは機械的ではなく、あくまで人間の力(意志)によるものなのだ。私が思うにこの感覚こそがマゼールの音楽最大の個性である。圧倒的指導力で全てを掌握するタイプの指揮者、たとえばトスカニーニメンゲルベルクフルトヴェングラー/セル/ムラヴィンスキーカラヤンチェリビダッケ/ヴァント/ショルティ(もちろん他にもまだまだいるが)といったお歴々にも、オーケストラと指揮者が人馬一体となって天高く駆けるという雰囲気はあった。ところがマゼールはオーケストラに飛翔を許さず、地上という二次元で鼻面を完全に引き回す。もちろん自発的要素が皆無なわけはなく、事実この《グレイト》でも熱気はオーケストラから放たれているし、細部の木管ソロには歌心が感じられ、これらが全てマゼールにオケがロボットのように従ってのことではない。だが決定できるのは指揮者だけという雰囲気が半端なく感じられるのだ。そこには、共同決定したのだという建前すら用意された形跡がなく、独裁者の演説にあてられて兵隊たちがそれを自らの意志だと勘違いした雰囲気すら薄い(ないわけではない。これが皆無ならばオーケストラはマゼールを支持しないだろう)。結果、音楽は地上を這いずり回ることになるのだ。これは唯一無二の個性である。実際のところ、この雰囲気は数回聴いたマゼールの実演でも濃密であった。
《グレイト》も含め、この交響曲全集は、シューベルト交響曲マゼール節で立派に鳴らされた貴重な記録である。希少価値は満点だ。加えて、上述通り、地上を這う癖の強さはあれど、曲の解釈自体は真っ当であるため、シューベルトの初期交響曲を初めて聴くといったケースでも問題なく使える音源となっている(マゼールは多くの場合そうだが)。なお、交響曲第1番の第1楽章では、ヴァントとカラヤンもやっていた、高い音による音型が聞かれる。本当にこれ、何なんでしょうね。古い楽譜がこれ、というのであればベームが同様のことをやっていないのは変だし。

ギュンター・ヴァント/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》


 1995年3月28日、29日、フィルハーモニーでのライブ録音。カルロス・クライバーの代役として久方ぶりにヴァントがベルリン・フィルの指揮台に立った時のもの。カルロスの演奏会だったから、元々練習時間がたっぷりあり、代役であっても引き受けることが可能だったのだと思われます。そしてこの共演が、ブルックナーの一連の演奏会&録音につながることになる。
 解釈はケルン放送交響楽団盤、北ドイツ放送交響楽団盤の時とほとんど同じである。結果に影響しているのは、オーケストラの性格の違いである。高機能なベルリン・フィルは、もちろんヴァントの指示に忠実な演奏を展開しているものの、オーケストラの響き自体が非常に分厚くどっしりとしており、木管のソロに至るまで堂々とした奏楽が、びくともしない高強度な一大建築を想起させ、聴感上はヴァントの過去の音盤とは全く異なる印象をもたらしてくる。そして終始冷静な北ドイツ放送響とは異なって、ライブによる熱気が確かに感じられ、第一楽章やフィナーレのクライマックスでは迫力満点ですらある。スケールが大きいのも、旧2種の録音にはない特徴だ。もちろん繊細で淡い味付けだって忘れられておらず、楽想の弾き分けもよく聴くと異常に細かい。これらはヴァントがしっかり管理しているものと思われる。メロディーだって魅力的に歌われるが、これはベルリン・フィルの奏者の方が腕や楽器がいいからだろう。第二楽章や第三楽章トリオにおける仄暗い表現も実に素晴らしい。ヴァントの意志の貫徹という意味では北ドイツ放送響盤の方が素晴らしいけれど、音楽を聴いてエキサイトできるという意味での《名演》は、このベルリン・フィル盤ということになるのだろう。どちらが上という議論は意味がないと思うのでしません。
 カップリングは同日の《未完成》。こちらもほぼ同傾向の演奏で、自然に流れつつ実は表情付けが非常に細かい。ベルリン・フィルも好演であり、彫りの深い演奏となっているのだが、音がずしりとし過ぎていて、《普通の》立派な演奏に近付いてしまっている。もうちょっと軽ければ、繊細な味わいがよりわかりやすかっただろう。