不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

カンタベリー物語 錬金術師の徒弟の話/チョーサー

出ました、中世ならではの職業の人が!

錬金術師の徒弟の話の序

聖セシリアの話が終わったとき、前夜の宿から5マイルも行かないうちに、ブーフトン・アンダー・ブレー*1で、一人の男が一団に追いついてくる。乗っていた馬をよほど急かしたのか、馬は汗びっしょり、口から泡も吹いている。チョーサーは最初、男の職業がよくわからなかったが、外套が頭巾に縫い付けられているのを見て悟る。とはいえ、この段階ではまだ記載されない。タイトルでバレバレではありますが。で、「外套が頭巾と繋がっている」のは、錬金術師がよくやっていた格好なのでしょうか?

彼は、宿から巡礼団を追って来たという。彼の師匠が話好きで、その師匠が一団に合流させてほしいということであった。

宿の主人は、師匠という人は面白い話を知っているのかと問う。弟子の男は、師匠は色々知っていると請け合う。宿の主人は、師匠の職業を尋ねる。すると弟子の男は、金銀を作るのが仕事だ(大意)と言う。宿の主人は、それにしては衣服が粗末だなと言う。徒弟の男は結構感情的になり始める。

だって師匠は金輪際成功することはないんですからね!

かくして徒弟はぶっちゃけ始める。師匠は賢過ぎる、過ぎたるは及ばざるがごとしで、それは師匠の明らかな欠点だ。町の郊外、隅っこ、袋小路などにこっそり隠れ住んでいる。自分の顔色が良くないのは、火を吹く仕事をずっとしているのに一向に成功しないからである。あちこちからゴールドを借りて、10ポンドからせめて1ポンド増やそうと信じ込ませる*2。一度として成功したことはなく、自分たちはそのうち貧乏になるだろう。

ここまで語り終えたところで、彼の師匠が追い付き、自分の話がされているのをすっかり聞いてしまい怒り出す。チョーサーがそれを見ての感想がこれ。

この師匠はいつも人の言葉に疑いをもっていましたものですから。それというのも、カトーが言っていますように、脛に傷をもつ人は、なんでも自分のことを話されているんだ、と考えるものですからね。確かに。

チョーサーが錬金術師に良い印象を持っていないのは明らかである。これは非常に興味深い。現代人の我々であれば、錬金術が無為な行為と知っているし、錬金術師を完全に疑ってかかるわけだが、錬金術など核融合でもしない限り不可能、中世では20000%無理であることを知らない同時代人がどうだったか私はこれまで一次資料に当たったことはなかった。『カンタベリー物語』はその貴重な一次資料の一つである。同時代でも錬金術師はうさん臭く思われていたのですね。住んでる場所も日陰者系だし。これは「錬金術師の徒弟の話」本体でも色濃く表れます。

錬金術師は、徒弟にもうこれ以上話すなと言うが、宿の主人は徒弟を焚きつけて、徒弟もやけっぱちになったのか話を止めようとしない。どうにもならないと悟った錬金術師は逃げ去る。

徒弟はもはややけくそである。師匠はいなくなった、悪魔が打ち殺してしまうがいいとまで言って、自分が知っていることをばらすと宣言する。

錬金術師の徒弟の話

第一部

徒弟は師匠と7年暮らしていた。だが知識は教えてもらえず、財産は失われるばかり。生きている間に返済できそうもない借金まである。自分を良い見せしめにしてくれと彼は言う。別に彼のみならず、この道では誰もがこうなっている、実際に自分以外にも同じような境遇の人間ばかりだと嘆く。

徒弟は錬金術の補助としてやったこと、見たことをかなり詳細に語るが、体系立てて教えてもらっていないという自分の主張通り、雑然としていてよくわからない。そしてぶっちゃける。

夜昼本に向かって座し、この秘密の、馬鹿げた学問を勉強したって、すべては無駄なんです。いやあ、それどころじゃないんです。(中略)とうてい無駄だから。彼が本の勉強をしていようとしていまいと、実際のところは、まったく同じだっていうことがわかるでしょう。(以下)金銀に変えることにかけては、結局おんなじだという結論になるでしょうから。つまりは、無知な人も学のある人もどちらも失敗するということです。

当事者にしてこの認識! そして彼は、それでもなお賢者の石が現れる希望を抱いてしまうと言う。賢者の石を永久に探し、つまりは永久に無為な行為を続けてしまう。

そして実験が失敗すると――ときに爆発すら起きてしまう――徒弟間で、あいつが悪いこいつが悪いの口論になる。それを師匠が止め、またやり直しになるのだ。だが金銀は一向に作れない。最も賢く見える者が、最も愚か。金のように輝いているものが全部金とは限らない。美しいリンゴが全て良いリンゴだとは限らない。

しこうして第二部これに続く

徒弟は、悪い伴僧の物語を始める。ただし本格的に始める前に、他の伴僧に詫びを入れる。全ての教団には誰か悪党がいるものであって、その一人の悪党のために教団全体を貶めるつもりはないと断る。まあ巡礼団には宗教関係者が結構含まれるから、こうも断るか。

さてロンドンに一人の僧がいた(この僧は善良である)。いんちき伴僧はこの僧に声をかけて、1マルクを借りる。そして3日目に返済する。伴僧はこの僧に感謝するふりをして、自分の仕事場に連れて行く。そして、水銀を銀に変えるという。だがそれはいんちきだった。銀のヤスリ屑を予め炭に仕込んでおき、燃やすと陽気に銀が残るという算段である。伴僧は銅でもトリックを仕掛けて、銀に変えたように見せかける。しかも作業を全て自分でやるのではなく、火を吹くなど一見メインに思える作業は僧に任せている。僧はすっかり騙されてしまった。そして伴僧から、この処方箋を高値(40ポンド)で売りつけられるのであった。

徒弟はこのような詐欺を警告し、錬金術に触れることを警告する。過去の偉人で錬金術に成功した者も、それを書物に書かなかった。なぜなら神が望まなかったからである。

どのようにして人がこの石にたどり着くかを、哲学者たちが明かすのを天の神様がお望みにならない以上、わたしは最善の忠告として、これはもうそのままにしておきなさい、と言います。(中略)神様の御意志と反対のことを何でもやろうとして、神様を敵とする人は、決して栄えることはありますまい。

総評等

錬金術師が14世紀にどう見られていたのかの貴重な一次資料である。ただの詐欺師と思われていたようだ。理性的な判断だと思う。詐欺に引っ掛かるところがまた人間らしいし、手口が詳しく書かれているのもまた興味深い。当時からこういうトリックがあるのはよく疑われていたのだろう。やっぱり14世紀人だって理性的なわけですよ。そりゃそうだよな、同じ人間だものね。また、徒弟の語り口が鼻息荒いのが面白い。ヤケクソ感、もうどうにでもなれ感が強く、読んでいて楽しいです。

ということで、読者としては錬金術を嘲笑しておけば良い。だが現代人として忘れてはならないのは、錬金術が千年以上にわたって蓄えたゴミのような知識の山にわずかに含まれた、宝の知識を萌芽として、科学が芽生えたということである。頭が良いわけでも、人間としての階梯を登ったわけでもない我々が、単に現代に生きているというだけで貪る、安楽、安寧、安逸、利便のほとんど全ては、錬金術を母として生まれた。つまり我々は数十億人のオーダーで、錬金術の恩恵に預かっている。それをゆめ忘れてはならない。そしてそのことを、チョーサーは知らなかった。知ることができるはずもなかった。史実は面白いものである。

そして全体的トーンから、ニュートンどころかコペルニクスすら生まれていないこの時代、錬金術の最終目的である貴金属錬成は、神の秘蹟に踏み入ることと認識されていたことがひしひしと伝わって来る。だからそれは悪いこととされた。科学と倫理のせめぎ合いは、今でも社会における大きなテーマである。だが現代人は、チョーサーが言うところの「神様の御意志と反対のこと」をやり倒して、繁栄を手にした。かかるがゆえに、この物語は、作者チョーサーの思惑も予想も遥かに越えて、600年後の今でも大いに響く物語になっていると思う。チョーサーの立場は正しいのだろうか? 我々の立場は間違っているのだろうか?

*1:カンタベリーから10キロも離れていない。あともう少し、もう少しなのだ。

*2:ひょとしてこれ、ポンジ・スキームによる自転車操業化しての詐欺の手法では?