不壊の槍は折られましたが、何か?

クラシック音楽を聴いた感想がメイン(のはず)

NHK交響楽団第1932回定期演奏会

2020年1月22日19時~ サントリーホール

  1. ウェーバー:歌劇《オリアンテ》序曲
  2. リヒャルト・シュトラウス:四つの最後の歌
  3. リヒャルト・シュトラウス交響詩英雄の生涯》Op.40

 コンサート・マスターはゲストのライナー・キュッヒル。このキュッヒルの技術が低下していて、《英雄の生涯》では惨状を呈しました。2011年に尾高忠明N響で《英雄の生涯》を聴いた際も、彼はゲスト・コンサートマスターとしてこの曲でソロを弾いていましたが、その時とソロの解釈は同じです。指揮者がコントロールしているソロ前後のテンポはほぼ無視して、早いテンポを設定し、ぐりぐりキリキリと鋭い踏み込みで切り込んでくる。細部に至るまで音符は明確に弾かれ、各楽想も異様に細かく弾き分けられて、表情もくるくる変わる。自然、ソロが表す英雄の妻は、早口でまくし立てる神経質で気の強い、ちょっとエキセントリックな人になるわけです。この解釈もなかなか面白くて聴き応えがあります。だがしかし、それもちゃんと弾けたらの話。フレーズの終りで悉く音を外すのはちょっと勘弁してもらいたい。《四つの最後の歌》でのソロは好調でしたが、《英雄の生涯》は本当にダメダメ。そろそろこの曲でコンマスやるのは止めた方がいいかもしれません。この曲は、弾けない人は弾くべきではない曲だと思います。
 ルイージ指揮のNHK交響楽団は、特にトゥッティが金属的でした。鳴りは良いんですが音が硬い。《四つの最後の歌》や「英雄の隠遁と完成」ではさすがに柔らかいサウンドに包まれる瞬間もあったのですが……。ルイージの解釈は、各声部や各楽器の違いを際立たせるものではないし、各楽想の違いを強調するものでもなく、全体の流れとうねりの中で熱狂・感傷を煽るというものだから、金属的な響きというのはちょっと具合が悪いように感じました。が、まあこれも私の席やら体調やらの問題かもしれません。会場は湧いていました。
 なおオポライスは、オペラティックな歌い口でした。声自体もそこまで美しくない。《四つの最後の歌》はヤノヴィッツの録音で馴染んだため、こういう歌唱は好みではないのですが、それでもなお、歌詞に対する感情移入や音楽の流れへの反応はとても素晴らしくて、それに声の伸びも再上質であり、こういうのも十分ありだと思わせてくれました。まあ実演で聴くとこういう感想に落ち着くことが多いんですが、オポライスはその中でもトップクラスでした。オペラ歌手は必ずしも「美声」一辺倒である必要はないということを痛感いたしました。一昨年のローマ歌劇場来日公演、行っておけば良かったかなあ。

ジャンルカ・カシオーリ/トリフォニーホール・グレイト・ピアニスト・シリーズ

2020年1月20日(月)
すみだトリフォニーホール:19時〜

  1. ベートーヴェン:6つのバガテル Op.126
  2. ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第12番変イ長調 Op.26《葬送》
  3. ベートーヴェン:劇付随音楽《シュテファン王》序曲 Op.117
  4. ベートーヴェンピアノ協奏曲第2番変ロ長調 Op.19
  5. (アンコール)ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調 Op.58 より第2楽章

 本名さんの指揮は初めて聴きましたが、なかなか良い。生命感ある指揮ぶりで、解釈は常套的ながら楽しめました。軽快に演奏しても全く問題のない曲を、軽快にやっていたので、より重厚な曲だったらどうなるのか興味があります。機会があれば行ってみたい。
 さて肝心要のカシオーリですが、球を転がすような美音で、タッチの粒も揃っていり大変美しい。指もよく回っていて曖昧な個所はない。というか、どの音符もくっきりと浮かび上がらせていました。それでいて、全ての音符にアンダーラインを引いた文書を見せられるような窮屈さもなく、自由で快適な空気も流れる。なかなか素晴らしい演奏だと思われたわけです。ただし時折、妙なアゴーギクやルバートを付けて、スムーズな一定の曲の流れが停滞したり折れ曲がったりする場面がありました。私にとってはこれは謎で、意識が悪い意味でこれらの箇所で揺さぶられ、演奏に乗り切れませんでした。あと、音楽作りがこれとても平面的に聴こえました。構造体としては浮かび上がってこないというか。これさえなければなあ……。なおこの特徴は、バガテルとアンコールの第4協奏曲(の緩徐楽章)ではあまり目立たない。中期や後期では一定のリズム/ペースでやらなくても違和感は生じない、ということなんでしょうか。初期作品でこれをやられると、様式感が破壊されているような気がしました。これに庄司紗矢香はヴァイオリン・ソナタで合わせるのか、と思ってしまったのも本音です。彼らの共演は実演録音問わず聴いたことがないんですが、ちょっと興味が出てきました。

NHK交響楽団第1930回定期演奏会

5年以上の間が空きましたが、久々の更新です。

2020年1月12日(日)
NHKホール:15時〜

  1. マーラー交響曲第2番ハ短調《復活》

 

 前日11日のネット上での評判が、特にアンサンブルについて否定的だったのでビクビクしながら行ったのですが、今日は特に問題なしでした。もちろん若干のミスはありましたが、アンサンブル大で崩れる場面はほとんどなかったように思います。第1楽章もばっちり。
 演奏は素晴らしいもの。テンポを伸縮させるエッシェンバッハの音楽作りにオーケストラがよく食らいついていました。熱っぽくも、ぶよぶよした感触が、最初から最後まで貫徹されていて、しかもオケの鳴り自体は非常にいいので、聴き応え満点です。常に音が暖かいのも特徴でした。白眉は第2楽章と第3楽章だったのではないでしょうか。弦の分厚さが印象的です。声楽は藤村さんが流石の出来栄え。新国立劇場合唱団は、この団体らしく、精度よりも厚みで聴かせる(精度が悪いと言っているわけじゃないですが、優先順位は明らかに厚みだったというニュアンスです)。エッシェンバッハの芸風に合っていたと思います。モンタルヴォは初めて聴きましたが、特段悪くもないんですが、藤村さんに比べると位負けもいいところで、耳をそばだたせる瞬間も皆無、正直いなくても良かった。急な代役なのでこれ以上は責めません。
 いずれにせよ、エッシェンバッハの芸風が非常に面白く聞けました。このぶよぶよの果てには、フルトヴェングラーがいる気がするんだよなあ。彼がマーラー交響曲を振っていたらこうなったんじゃないか、と思ったり思わなかったり。ま、妄想です。

ロリン・マゼール/バイエルン放送交響楽団 シューベルト:交響曲第8番ハ長調《グレイト》

Wanderer2014-11-01

 2001年3月18日、プリンツレーゲンテンシアターでのライブ録音。13日と16日と合わせて、同一会場でシューベルトの全交響曲連続演奏会の一環として演奏&収録された模様である。この会場はヘラクレスザールよりも狭く、客席数は1300程らしい。シューベルト交響曲に合わせた会場設定だったのだろうか。
 堂々たる演奏である。どっしり構えてオーケストラを壮麗に鳴らしており、テンポも中庸。序奏部も21世紀にしては遅めで、ピリオド楽派などいなかったかのようだ。弦はレガート〜レガート気味に鳴らされており、画然とした演奏という印象は薄く、各場面はなだらかに滑らかに移行していく。よってどちらかというとメロディー重視路線だな、という感触が強まっている。テンポの変化も付けられてはいるが、それらはあくまで自然に、楽想の切れ目というか転換点に頻出、緊張の高まりや弛緩を巧みに表現している。それはこれ見よがしに演奏効果を狙うというよりも、音楽の流れを重視した結果だと思われる。そしてオーケストラ自体も大変立派で素晴らしく、木管の鳴りっぷり、弦のブレンドされ切った音色など、管弦楽を聴く楽しみを堪能できる。
 ただし――と、段落を変えて、私の妄想でしかないかも知れない感想を書き散らすが――指揮者はあのマゼールであり、細部まで指揮者一人が音楽を管理しており、しかもその管理が厳格で、一挙手一投足まで、その音を出している本人ではなく別の誰かの意思に従っている感覚が半端なく付きまとう。ただしそれは機械的ではなく、あくまで人間の力(意志)によるものなのだ。私が思うにこの感覚こそがマゼールの音楽最大の個性である。圧倒的指導力で全てを掌握するタイプの指揮者、たとえばトスカニーニメンゲルベルクフルトヴェングラー/セル/ムラヴィンスキーカラヤンチェリビダッケ/ヴァント/ショルティ(もちろん他にもまだまだいるが)といったお歴々にも、オーケストラと指揮者が人馬一体となって天高く駆けるという雰囲気はあった。ところがマゼールはオーケストラに飛翔を許さず、地上という二次元で鼻面を完全に引き回す。もちろん自発的要素が皆無なわけはなく、事実この《グレイト》でも熱気はオーケストラから放たれているし、細部の木管ソロには歌心が感じられ、これらが全てマゼールにオケがロボットのように従ってのことではない。だが決定できるのは指揮者だけという雰囲気が半端なく感じられるのだ。そこには、共同決定したのだという建前すら用意された形跡がなく、独裁者の演説にあてられて兵隊たちがそれを自らの意志だと勘違いした雰囲気すら薄い(ないわけではない。これが皆無ならばオーケストラはマゼールを支持しないだろう)。結果、音楽は地上を這いずり回ることになるのだ。これは唯一無二の個性である。実際のところ、この雰囲気は数回聴いたマゼールの実演でも濃密であった。
《グレイト》も含め、この交響曲全集は、シューベルト交響曲マゼール節で立派に鳴らされた貴重な記録である。希少価値は満点だ。加えて、上述通り、地上を這う癖の強さはあれど、曲の解釈自体は真っ当であるため、シューベルトの初期交響曲を初めて聴くといったケースでも問題なく使える音源となっている(マゼールは多くの場合そうだが)。なお、交響曲第1番の第1楽章では、ヴァントとカラヤンもやっていた、高い音による音型が聞かれる。本当にこれ、何なんでしょうね。古い楽譜がこれ、というのであればベームが同様のことをやっていないのは変だし。

ギュンター・ヴァント/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

Wanderer2014-10-29

 1995年3月28日、29日、フィルハーモニーでのライブ録音。カルロス・クライバーの代役として久方ぶりにヴァントがベルリン・フィルの指揮台に立った時のもの。カルロスの演奏会だったから、元々練習時間がたっぷりあり、代役であっても引き受けることが可能だったのだと思われます。そしてこの共演が、ブルックナーの一連の演奏会&録音につながることになる。
 解釈はケルン放送交響楽団盤、北ドイツ放送交響楽団盤の時とほとんど同じである。結果に影響しているのは、オーケストラの性格の違いである。高機能なベルリン・フィルは、もちろんヴァントの指示に忠実な演奏を展開しているものの、オーケストラの響き自体が非常に分厚くどっしりとしており、木管のソロに至るまで堂々とした奏楽が、びくともしない高強度な一大建築を想起させ、聴感上はヴァントの過去の音盤とは全く異なる印象をもたらしてくる。そして終始冷静な北ドイツ放送響とは異なって、ライブによる熱気が確かに感じられ、第一楽章やフィナーレのクライマックスでは迫力満点ですらある。スケールが大きいのも、旧2種の録音にはない特徴だ。もちろん繊細で淡い味付けだって忘れられておらず、楽想の弾き分けもよく聴くと異常に細かい。これらはヴァントがしっかり管理しているものと思われる。メロディーだって魅力的に歌われるが、これはベルリン・フィルの奏者の方が腕や楽器がいいからだろう。第二楽章や第三楽章トリオにおける仄暗い表現も実に素晴らしい。ヴァントの意志の貫徹という意味では北ドイツ放送響盤の方が素晴らしいけれど、音楽を聴いてエキサイトできるという意味での《名演》は、このベルリン・フィル盤ということになるのだろう。どちらが上という議論は意味がないと思うのでしません。
 カップリングは同日の《未完成》。こちらもほぼ同傾向の演奏で、自然に流れつつ実は表情付けが非常に細かい。ベルリン・フィルも好演であり、彫りの深い演奏となっているのだが、音がずしりとし過ぎていて、《普通の》立派な演奏に近付いてしまっている。もうちょっと軽ければ、繊細な味わいがよりわかりやすかっただろう。

ニコラウス・アーノンクール/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 シューベルト:交響曲第8番ハ長調《グレイト》

Wanderer2014-10-28

 1992年11月、コンセルトヘボウでのセッション録音。交響曲全集の一環である。
 テンポ設定はアーノンクールらしく穏当な「やや速め」である。ビブラートがかなり抑えられており、ざくざくした音色で進行する。よって腰の据わった重量感のある音はあまり出せていないのだが、アーノンクールはそれを逆手にとって、メロディーの奏で方に工夫を凝らし、モチーフの数々を、明滅しながら浮遊する淡いものとして提示する。オーケストラが、ノンビブラートの範囲内で出せる、能う限り美しい響きを出していることもプラスに働いているのが特徴だ。全体的に、ある種退廃的な香気すらまとっており、非常に印象的な演奏となっている。アゴーギクが意外と控えめでさほど劇性を煽り立てないこともあって、儚げな風情が時々息を呑むほどの美しさをもって聴き手に迫って来るのだ。特に第二楽章の優美さは筆舌に尽くしがたく、快活なはずのスケルツォ主部やフィナーレも、木管群を中心に、浮遊感のある歌がそこここに響く。後者の第二主題などはしみじみと心に染みわたります。スケール感はそれほど大きくありませんし、軽妙さが勝つ場面が多いとはいえ、盛り上がるべき所ではちゃんと盛り上がってもくれます。同じようなモチーフの繰り返しから成る音楽だとは全く聞こえず、あくまで美メロの集積体として構築されている辺りが、アーノンクールの解釈の本質なのかもしれません。
 で、交響曲全集としては、《グレイト》と同傾向の解釈であるにもかかわらず、曲の性格が違うためか、初期6曲は、最初から最後まで力強く熱のこもった演奏に聞こえる。これは結構意外。そして《未完成》は非常に翳が濃く、《グレイト》でも感じられた退廃感が極まっております。旋律線の息の長さに正面から付き合わず、浮遊感で乗り切っているのが面白い。

ジョージ・セル/クリ―ヴランド管弦楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

Wanderer2014-10-27

 1957年11月1日、セヴェランス・ホールでのセッション録音。ステレオである。
 ひやりと冷たい肌触りの演奏だが、決して機械的ではない。吉田秀和の表現をアレンジして書きますが、これは金属の冷たさではなく、陶磁器の冷たさである。それも極上の。セル時代のクリ―ヴランド管というと音に聞こえた20世紀の《行くところまで行った》アンサンブルの一つだが、その特性がフル活用されている。エッジの効いた弾き方だと音は合わせやすい(あるいは音が合って聞こえやすい)のだが、このオーケストラにそんな措置は必要ない。滑らかな弾き方なのにさらっと異常な精度で音を合わせてくる弦は本当にヤバい。フィナーレは完全にマジキチである。また木管金管もあまりに上質過ぎる。ソロの場面など、どの管も実に上手い。セルはこのオーケストラに対して、楽曲全体の構造は流線形に美しく磨き上げて見せること、そして各場面では、セルの指示する《最適》なバランスの音を鳴らすよう要求する。目立たないパートは本当に全然目立たない辺り、最近流行りの、どのパートもくっきり聴かせる演奏とは一線を画する、
 基本的にクールな演奏なのだが、パッションがないわけではないのがポイントだ。どの楽章でも、控えめながらも抑えがたい高揚感が見られる。第二楽章でもテンポをちょっと速めて心から何かが溢れる切迫感すら生み出していて見事。それらの激しくなりかねない情動が、総奏の終了 or 管楽器ソロによってクールダウンされる。このクールダウンがまた素晴らしいのだ。また第一楽章やフィナーレのクライマックスでは、弦が心もち音を引っ張るなど、芝居気すら垣間見せてくれる。これらは隠し味的にしか作用していないかも知れないが、とはいえこの隠し味がこの演奏の印象全体に大きな影響を及ぼしているようにも思われる。セルが、セッション録音においてすら、人工的だの非人間的だのと難詰されることが少ないのは、要するにこの隠し味があってこそではないだろうか。大変厳しく統制されているのだけれど、その厳しさを厳しさとして表面化させないよう統制された――つまり、通常の《厳しい統制》よりも更に一段上のレベルの統制が為されている――演奏にあっても、はみ出す感情や感傷がある。それがとても利くのである。あるいは、「冷たいけれど穏やか」という佇まい自体に、聴き手の何らかの感傷を惹起するトリガーがあるのかも知れない。
 もちろん、クールな箇所も実にいい。第二楽章や第三楽章トリオ、フィナーレ第二主題での木管群の歌は、特別なことは何もやっていないのに、そくそくと胸に迫る何かがある。スケルツォも楽想の旋回が儚げだ。オーケストラの総奏には、熱気がないけれど迫力はあるのも特筆すべきことだろう。あ、あとフィナーレでトランペットが凄い目立ち方してます。録音バランスの問題って可能性もありますが、他の場面のことを考えると、これはセルの指示の可能性が高いと考えます。後年のEMI録音も聴くと確証が持てますが、あっちは持ってないし、現在廃盤中なんだよな。
 カップリングは《ロザムンデ》関連の三曲。どれも素晴らしい演奏だが、序曲は《グレイト》に比べるまでもなく実に画然とした演奏(特に主部!)で、意外の念に打たれました。メロディーもかなり揺らしてます。やはり大指揮者、曲によってやり口変えて来てるんだよなあ。

マルティン・ジークハルト/アーネム・フィルハーモニー管弦楽団 シューベルト:交響曲第8番ハ長調《グレイト》

Wanderer2014-10-26

 2003年9月9日〜12日、アーネムのムシス・サクルム、コンサート・ホールでのセッション録音である。EXTONレーベルは、オンマイク気味録音の雄として、今回もなかなかいい音でオーケストラを録ってくれております。
 非常に緻密で充実した演奏である。奇を衒わず正面から楽譜と四つに組んで、かっちりした全体設計を前提に、細部のニュアンスも逐一拾い上げている。横の流れよりは縦の線をきっちり合わせることを重視しており、アクセントや音の切れが良く、ハーモニーにも厚みがある。拍節感も強めになっているが、メロディラインも無視されているわけではなく、レガートでメロディーを滑らかに動かす場面もあり、聴いていて「カッチカチやな……」的な違和感を覚える人は少ないだろう。オーケストラもなかなか立派であり、技術的に(このセッション録音で聴く分には)全く問題がない。木管群も最上・極上とは言えないものの、十二分に魅力的だ。意気込みも十分で、積極果敢にシューベルトの楽想に食いついている。テンションも郄めであり、各楽章のクライマックスではエキサイトさせられます。地方都市のマイナーなオーケストラと甘く見ていると驚かされること請け合いというわけです。
 カップリングは《未完成》。こちらも同傾向の演奏で、横の流れよりは縦の線、というか楽曲構成を重視している。よって雅な風情はほとんど感じられませんが、しっかり正面から演奏できているので好感度は高いです。基本を押さえたいい演奏だと思いますよ。

カール・ベーム/シュターツカペレ・ドレスデン シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

Wanderer2014-10-25

 1979年1月、ドレスデンのクルトゥーアパラスト(文化宮殿と訳すのだろうか?)でのライブ録音。84歳なのにちゃんとドレスデンに出向いて演奏会を開いている辺り、ザルツブルクに呼びつけて共演するだけの指揮者とは違って正面から仁義を切っている感じがします。指揮者の素行は、演奏内容とは無関係に考えるべきですし事実そうするよう心掛けてはいるんですが、やっぱり人間としての印象の良し悪しそれ自体は判定しちゃいますよね。
 解釈は基本的にベルリン・フィルの演奏と変わらないのですが、こちらの方はよりスムーズに流れるようになって拍節感が薄まっております。よってブロックを積み上げて巨大建築物を作るという風情は、かなり弱まっております。これはライブゆえかも知れないし、オーケストラの性格の違いかも知れない。どちらが好きかはそれこそ人によるでしょうし、私自身、どっちも魅力的で困ってしまうんですが、第二楽章前半と第三楽章トリオはこちらの方が好み。第二楽章を前半に限定したのは、全体的にテンポが速まっており、第二楽章後半にわずかにせかせかした感覚が紛れ込んでいる気がするからです。もちろんこれはこれでアリで素晴らしいとは思うんですが、あくまで好みということであれば、ベルリン・フィルとのゆったりした歩みが好きだったりしますです。そしてこのテンポの速さは、両端楽章で効果をあげており、拍節感が弱まっているのと相俟って、ベルリン・フィルとの録音とはまるで違う感触を聴き手に与えるのだ。演奏が進みにつれて徐々に熱くなって来る感もあって、いい意味でのライブ感にあふれている。シュターツカペレ・ドレスデンも、相変わらず味わい深い音色であるが、コリン・デイヴィス盤はもちろん、ブロムシュテットとの録音と比べても更に響きが引き締まっている。これは指揮者による差でもあろうし、会場の差でもあろう。この録音会場クルトゥーアパラストは、ルカ教会よりも響きがデッドであり、サウンドがより直截なものとなっているのである。
 なおこういったライブ録音をスタジオ録音と比較して、ライブ録音の方を気に入った人は、「ベームはライブの人だ」とか何とか言いがちですけれど、そもそもライブの人ではない音楽家なんて数えるほどしかいない(グレン・グールドは明らかにライブの人じゃないよなあ、とか)。大量のスタジオ録音を残したカラヤンやマリナーといった指揮者も、ライブでは興が乗ってたりします。そういう当たり前のことを偉そうに言うのは恥ずかしいから止めていただきたい。

ジョン・エリオット・ガーディナー/リヨン歌劇場管弦楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

Wanderer2014-10-23

 1986年7月、ジャック・コール宮でのライブ録音。
 ウィーン・フィルを指揮した音盤では、古楽奏法がそれほど目立っていなかったが、こちらは同じ現代楽器のオーケストラながら(録音時点の)手兵ということもあって、ピリオド楽派的側面がより徹底されている。スケルツォ古楽メヌエット(あるいは他の舞曲)のように聞こえるし、どんな総奏も分解能がはっきりしている点はなかなか面白い。ただしガーディナー自身がそれほど古楽奏法をおもしろおかしく強調するタイプではないため、ノリントンアーノンクールインマゼールのような尖った演奏を期待すると肩透かしを食らうだろう。代わりにガーディナーには、ストレートでフレッシュな息吹がある。それはこの四半世紀以上前の録音にもしっかり刻み込まれている。
 ここで聴かれるオーケストラのサウンドは、ビブラートが弱く、ピッチも低めと、ピリオド様式で統一されている。しかしそれ以外は、全くもってストレートな演奏だ。テンポは速めで、やや小ぶりな鳴り方ながらサウンドがよく整理されており、全体的に爽やかに進んでいく。聴いていて心地よいし、軽やかな足取りは小気味よさすら感じさせる。しみじみしとした味わいや、腰の入った力感は弱い。というか音がふわふわしていて、しなやかさすらあまり感じさせないのだが、そういうのはガーディナーも最初から目指していないだろうな。この小気味よさは癖になる。ロマン派のロマンティックな音楽としての性格は剥ぎ取られており、古典派を通り越して、快活でバロック音楽のような感興が支配的である。シンプルな、非常にいい演奏だと思います。
 発売当初、この録音の評判は芳しくなかったらしい。音盤の単価が高く、オタクであってもベスト盤を決め込むことに経済的意味があった時代において、ワルターフルトヴェングラーベームブロムシュテットレヴァイン辺りの録音を定番扱いしてそればかりに慣れ親しんでいた当時の音楽ファンには、この演奏は軽過ぎたということなのだろうと私は勝手に推測している。ビブラートの薄い音が貧相に聞こえたのかも知れない。古楽奏法を古典派以降に持ち込むことが流行り始めていたがまだ普遍化まではしていなかった当時において、ガーディナーらを否定することは《流行を否定する俺カッコいい》に繋がったということだと考えている。この言い方が悪意に過ぎるというなら、こう言い換えよう。所詮「あいつら」のものでしかない古楽奏法を、「ぼくらの」曲において「ぼくらの」現代楽器オケが採り入れるなんて許しがたかった――そういう態度を取る人が多かったということなのではないだろうか。しかし今やそういう思い込みから自由になった聴き手は増えた。さらに音盤が安くなっって買い求めやすくなった以上、《グレイト》クラスのメジャー曲においてベスト盤を決めてそれで楽曲イメージを固定してしまうのは、あまりにも勿体ない。そんな今こそ、ロマン派への古楽奏法適用の最初期の試みであるこの演奏の完成度の高さは、再評価されるべきである。
 で、そういう話とは別のところで、ふと気が付いたことがある。この音盤に到達するまで私はこのブログで54種類の録音を聴いて来たわけだが、このガーディナー&リヨン歌劇場管で、初めてフランスのオーケストラによる録音を聴けたことになる。独墺系の音楽で、フランスのオーケストラはまるで録音に使われないのである。演奏してないってわけじゃないだろうにね。この録音には古楽奏法というエポック(あくまで当時においてはである)があるが、それがもしなければ、この録音が為されたかは正直怪しい。そもそも独墺系に限らず、フランス系以外の音楽では、フランスのオーケストラって録音ではなかなか採用されない。先述の通り、一曲につき一つのベスト盤を争う時代ではもうなくなっているので、フランスのオーケストラによる様々な国の音楽を録音してくれてもいいじゃないかと考える。
 カップリングは1987年7月モンペリエ歌劇場でのセッション録音による《未完成》である。こちらも古楽奏法が適用されているが、旋律の浮遊感ある歌い方が実に魅力的だ。こういう歌い方は、古楽奏法の方がやりやすいと思います。
 ところでガーディナーは、オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティークシューベルトを再録音してくれないのだろうか? 二種類ある《グレイト》がどちらもモダン楽器オケとのものってのは、ピリオド楽派の雄としてはちょっと寂しい気がしますので。というかガーディナー、来日してくれないかなあ……。