不壊の槍は折られましたが、何か?

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ロリン・マゼール/バイエルン放送交響楽団 シューベルト:交響曲第8番ハ長調《グレイト》

 2001年3月18日、プリンツレーゲンテンシアターでのライブ録音。13日と16日と合わせて、同一会場でシューベルトの全交響曲連続演奏会の一環として演奏&収録された模様である。この会場はヘラクレスザールよりも狭く、客席数は1300程らしい。シューベルト交響曲に合わせた会場設定だったのだろうか。
 堂々たる演奏である。どっしり構えてオーケストラを壮麗に鳴らしており、テンポも中庸。序奏部も21世紀にしては遅めで、ピリオド楽派などいなかったかのようだ。弦はレガート〜レガート気味に鳴らされており、画然とした演奏という印象は薄く、各場面はなだらかに滑らかに移行していく。よってどちらかというとメロディー重視路線だな、という感触が強まっている。テンポの変化も付けられてはいるが、それらはあくまで自然に、楽想の切れ目というか転換点に頻出、緊張の高まりや弛緩を巧みに表現している。それはこれ見よがしに演奏効果を狙うというよりも、音楽の流れを重視した結果だと思われる。そしてオーケストラ自体も大変立派で素晴らしく、木管の鳴りっぷり、弦のブレンドされ切った音色など、管弦楽を聴く楽しみを堪能できる。
 ただし――と、段落を変えて、私の妄想でしかないかも知れない感想を書き散らすが――指揮者はあのマゼールであり、細部まで指揮者一人が音楽を管理しており、しかもその管理が厳格で、一挙手一投足まで、その音を出している本人ではなく別の誰かの意思に従っている感覚が半端なく付きまとう。ただしそれは機械的ではなく、あくまで人間の力(意志)によるものなのだ。私が思うにこの感覚こそがマゼールの音楽最大の個性である。圧倒的指導力で全てを掌握するタイプの指揮者、たとえばトスカニーニメンゲルベルクフルトヴェングラー/セル/ムラヴィンスキーカラヤンチェリビダッケ/ヴァント/ショルティ(もちろん他にもまだまだいるが)といったお歴々にも、オーケストラと指揮者が人馬一体となって天高く駆けるという雰囲気はあった。ところがマゼールはオーケストラに飛翔を許さず、地上という二次元で鼻面を完全に引き回す。もちろん自発的要素が皆無なわけはなく、事実この《グレイト》でも熱気はオーケストラから放たれているし、細部の木管ソロには歌心が感じられ、これらが全てマゼールにオケがロボットのように従ってのことではない。だが決定できるのは指揮者だけという雰囲気が半端なく感じられるのだ。そこには、共同決定したのだという建前すら用意された形跡がなく、独裁者の演説にあてられて兵隊たちがそれを自らの意志だと勘違いした雰囲気すら薄い(ないわけではない。これが皆無ならばオーケストラはマゼールを支持しないだろう)。結果、音楽は地上を這いずり回ることになるのだ。これは唯一無二の個性である。実際のところ、この雰囲気は数回聴いたマゼールの実演でも濃密であった。
《グレイト》も含め、この交響曲全集は、シューベルト交響曲マゼール節で立派に鳴らされた貴重な記録である。希少価値は満点だ。加えて、上述通り、地上を這う癖の強さはあれど、曲の解釈自体は真っ当であるため、シューベルトの初期交響曲を初めて聴くといったケースでも問題なく使える音源となっている(マゼールは多くの場合そうだが)。なお、交響曲第1番の第1楽章では、ヴァントとカラヤンもやっていた、高い音による音型が聞かれる。本当にこれ、何なんでしょうね。古い楽譜がこれ、というのであればベームが同様のことをやっていないのは変だし。