不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

カンタベリー物語 粉屋の話/チョーサー

宿の主人と粉屋の間に交わされた言葉これに続く。

巡礼団の中で、騎士の話は気高いと好評だった。宿屋の主人は次の話者を修道僧に振ろうとするが、ビールで酔っ払った粉屋が割って入る。宿屋の主人に止められても聞きやしない。粉屋は、自分が間違ってもサザークの宿の酒のせいにしてくれと言う。そして、語る話は「大工と細君」の物語であり「学僧が大工をさんざんとっちめた」内容だと言う。元大工の家扶は、細君をゴシップのネタにするのはだめだと止めに入るが、粉屋にお前未婚者やから関係ないやろ(大意)と一蹴。チョーサーは、これから記す話は下品だが粉屋の話をそのまま書いただけなので悪く取らないでくれ、粉屋も家扶も他の連中も下衆だが自分を非難しないでくれ、冗談を真に受けないように、などと散々予防線を張る。

粉屋の話ここに始まる。

粉屋の語る話はこうである。オックスフォードの金持ちの大工ジョンの家には、しゃれものニコラスという、天文学*1を学ぶ学生が下宿していた。恋愛好きで外見もよく、香りにも気を付け、本や星儀、計算用の石なども整理整頓され、竪琴を弾いて歌をたしなむ。さて大家の大工は最近結婚したばかりで、妻のアリス―ンはまだ若い18歳の美人であった。粉屋は大工が彼女を「かごの中に閉じ込めていた」と言う。大工の留守に、ニコラスがちょっかいをかけて愛をささやき、アリス―ンとねんごろになってしまう――とは言ってもやることはキス程度で、口説きとじゃれ合いが優先されている。一方、教会の教区書記アブサロンもアリス―ンに惚れて、大工の家の窓の傍に行き、ギター*2片手に求愛の歌を歌い、恋の病ですっかりやつれてしまう。

そんな中、ニコラスとアリス―ンは大工に悪戯をしかけることを思いつく。ニコラスは一時的に自室に閉じこもって思わせぶりな態度を取る。学問のやり過ぎて頭がおかしくなったのかと心配する大工に、ニコラスは、占星術の結果ノアの方舟のような大洪水が次の月曜日に起きると大嘘を吐く。そして、大工は屋根の下に吊り下げた桶の中に避難すべしだと言う。ニコラスの目的は大工が桶にいる間に若妻と浮気することだから、大工夫婦が別々の桶に入らねばならないとも指示する。アリス―ンもこれに呼応してジョンに助けてと泣きつく。そして当日、首尾よく亭主を桶に引きこもらせた二人は、ベッドでいちゃつく。そうしていると、アブサロンがやって来て、アリス―ンに窓越しのキスをせがむ。アリス―ンは彼を笑いものにすべく、窓から尻を突き出した。アブサロンはそれが彼女の唇だと信じてキスをし、ごわごわした毛のようなもの*3が口に触れてギョッとして逃げ出してしまう。道々で彼は口を拭い、恋は冷め、復讐を誓い、鍛冶屋から焼いた隙の刃を借りてくる。再度大工の家にやって来たアブサロンを更に笑いものにしようと、今度はニコラスが窓から尻を突き出し放屁するが、そこにアブサロンは焼いた隙の刃を押し付けた。熱で尻の皮膚がはがれ、ニコラスは騒ぎ始める。これに驚いた大工はすわ洪水が来たと斧で綱を切ってしまい、桶が地面に落下→腕を骨折→気絶のルートを辿る。周囲は騒ぎになるが、目を醒ました大工は、恐らくは事実の経緯を説明しようとしたものの、ニコラスとアリス―ンから知らないふりと気違い扱いをされてしまう。周囲も大工のことなど誰も信じない。そしてこの出来事は見事、誰も彼もから笑われることになった。

下宿で連れもなくたった一人で一つ部屋に暮していまし た。

わざわざこう書くということは、当時の学生は下宿に複数人で入居する者だったのかもしれない。

語り手の粉屋は一貫して大工を愚か者扱いしており、浮気に走るニコラスとアリス―ンのことを悪く言わない。かなり早い段階で「人はその同類と結婚すべきなり」という格言を引いており、年甲斐もなく若い妻を娶った大工が悪いのだと言わんばかりである。具体的年齢が記載されていないとはいえ、まあさすがにどんな歳の差があっても、この仕打ちは酷いと思います。人の言うことを頭から信じるな、インテリはろくなもんじゃない、リア充は他人の痛みに盲目だなどなど、風刺が効いているとも思います。ただ粉屋自身は恐らく、大工でもある家扶を馬鹿にするためにこの話をしていると思しい。この二人には何かありそうです。

ともあれ、このエピソードの笑いは、ドリフなどでPTAが眉をひそめたあの笑いです(歳がばれますね)。嫌いな人は今も昔もいる一方で、好きな人はとても好きでしかもその人数が多い。だからこそチョーサーもこの物語を書いて採録したのでしょう。テレビもマンガもなく、本もない(あっても高いし識字率が低いから読めない人多数)、絵画もルネサンスすら迎えていないのでリアルなタッチのそれは望むべくもない。ヴィジュアル・イメージがなかなか共有できない時代、文字が読めるだけで結構なハイソサエティだったこの時代において、この物語はどう受け止められたのでしょうか*4

*1:当時のことだから天文学占星術と分かち難く結びついていた。ニコラスもまた、占星術師でもあったし周囲からもそうみなされており、そのことは物語後半ではっきり描かれる。

*2:14世紀に所謂ギターはまだない。原文ではgiterneだからまだその前身の段階ですね。アブサロンはヴァイオリンも上手いと訳されているが、こちらの楽器も14世紀にはまだない。こちらの原文はrubibleであり、これまたヴァイオリンやヴィオールの前身です。当時は盛んだったが今はほぼない事物について、勝手に現代品で代替して訳出するのはどうかと思います。こういうの他にもいっぱいありそうで困る。

*3:けつ毛だと思うが、この点は識者の意見も聞きたいと思います。当時のトイレ事情を考えると、もっと不潔なものがパサパサになったら……という可能性もないわけではないような。

*4:この点は恐らく『カンタベリー物語』どころかこの時代の全ての物語に言えることですが。