不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

吸血の家/二階堂黎人

二階堂黎人の諸作品を再評価*1したくなってきた。これ自体に理由は特にない。ただ、『容疑者Xの献身』論争における事実上の敗北が、その後の作家としての評価に悪影響を与えたのは確かであり、ここ10年ほどは、それは気の毒だと感じるようになっていた。また、私も中年となり、人生経験も浅いながら積み増しはしたため、恐らく以前の作品を再読すれば違った感想も抱けよう。告白しておくが、二階堂黎人の初期作品は私にとって紛れもなく、青春を彩った小説群の中に含まれている。恩義や親しみはあるのだ。加えて、ある程度のまとめ読みと再評価は、作家・作品に加えて読書そのものの解像度を上げる効果があり、作家を変えつつ定期的に行うべきである。2023年後半、私にとってのそれが二階堂黎人だったということである。

ただし、当方もそれなりに多忙であるため、読書ペースはゆっくりになります。1年後に二階堂蘭子シリーズを完走できていたらご喝采、ぐらいのペースを想定しています。次回更新は早速1か月以上は空くでしょう。

なお、作家・二階堂黎人は、二階堂蘭子シリーズの語り手に、自分と同姓同名の登場人物・二階堂黎人を宛がっている。よって、感想をしたためる際に、単に二階堂黎人と書いただけでは、それが作家なのか登場人物なのかわかりにくくなる。そこで、二階堂蘭子シリーズを取り上げる投稿に限り、登場人物の二階堂黎人は「黎人」と記載し、作家の二階堂黎人は「二階堂黎人」または「二階堂」と記載することにします。この注意書きは、本シリーズの感想においては、毎回掲げます。

時代設定は、昭和44年(1969年)1月である。二階堂黎人のデビュー作は『地獄の奇術師』で、しかもその事件は昭和42年11月スタートである。物語の時系列順または刊行順に読むならば、『吸血の家』は後回しにすべきところだ。しかし、ホームズはじめ大概のシリーズと同様に、二階堂蘭子シリーズも、作品の執筆順・刊行順と、作品内の時系列順は必ずしも一致しない。『吸血の家』は『地獄の奇術師』よりも先に書かれ、鮎川賞に応募され、佳作入選となった。だから創作順を無視すれば、『吸血の家』を先にしてもおかしくないのだ。

少し悩んだが、デビュー当時の状況を勘案して、今回の二階堂作品のまとめ読みに当たっては、『吸血の家』から始めることにした。今回本作は再読となる。初読の際――まだ私は高校生だった!――は、『地獄の奇術師』から始めたので、順番を変えたら感じ方が変わるかにも興味が湧いた次第である。

今回は一応章立てを行うが、毎回やるとは限らない。できるだけ自由に行きたいので、そういう縛りは入れません。

あらすじ

《血吸い姫》

物語は文政年間または天保年間に八王子宿で起きたとされる、凄惨な《血吸い姫》の言い伝えが記述されて始まる。このパートはまだ三人称だ。《血吸い姫》は八王子宿の飯盛り旅籠にして女郎屋《久月楼》での出来事とされており、吸血行為は、座敷牢に閉じ込められた姫が、同じ牢に入れられた女郎が死んだ後で、生きるため、これから血を吸っていた、という形式で行われる。吸血鬼ではない点に留意されたい。超自然的現象は、姫の死後の呪いという形で表れる。ここでも奇病にかかって死んだり火事になったりするだけで、呪われた人間が吸血行為を行うわけではない。

なお、《血吸い姫》の舞台となる旅籠は、本編の《久月》および雅宮家の前身である。

伝承パートが終わると、いよいよ舞台は昭和44年(1969年)の現代に飛ぶ。

第一の血 白い魔術

昭和44年(1969年)1月10日金曜日*2、午前10時過ぎ。関東一円で朝から雪が降る中*3、東京都の国立市にある旭通り*4の真ん中辺りにある喫茶店紫煙》に、不気味な女がやって来て、店主・店員・常連客に、二階堂家へ伝言せよとして、八王子山合の《久月》で事件が起きる、24年前の事件も関係すると言い残し、去る。この女の足跡は、途中でふっつり消えていた。

茶店紫煙》は、蘭子と黎人が所属する《推理小説研究会》が常連として入り浸る場所で、店主もミステリ・マニアで、大量の蔵書を有する。またこの話の中で居合わせた「常連」とは、《推理小説研究会》の顧問の教授と助教授である。彼らは女の登場前に推理小説談議、特に名探偵談義に花を咲かせていて、読者の印象に残るのですが、以後一切出て来ません。よって『吸血の家』においては彼らの名前を覚えておく必要はないです。

そして場面は二階堂家に移り、蘭子と黎人が登場する。彼らは雅宮家(現存するのは美人三姉妹+そのうち一人の娘、および使用人だか何だかよくわからない住み込みの夫婦。屋敷外に住む係累にも変なのがいるらしい)の状況を確認した後、24年前の事件を説明させるため、三多摩署の中村警部を呼び出す。中村警部は24年前(昭和20年、1945年)冬の、《久月》で起きた、陸軍将校殺人事件を説明する。それは雪上に犯人の足跡がないタイプの事件であった。

この事件を語る過程で、彼らは雅宮家のことに更に深く触れていく。加えて、足跡のない殺人の講義を蘭子が行う。

第二の血 呪縛浄霊

昭和44年(1969年)1月18日、蘭子と黎人は中村警部と共に、雅宮家にやって来る。屋敷では、雅宮一家の他、三姉妹の一番下の妹の婚約者、ブラジルから帰国してきたという初老の客、新興宗教の教祖を名乗る女、三姉妹の真ん中の妹の元夫がいた。教祖は怪しげな儀式をしている。

19日の夜、教祖が主催する浄霊会が開かれ、そこで事態が急変する。

20日の朝、死体が発見された。24年前の事件を第一の殺人とすれば、第二の殺人の発生である。今回も密室殺人の一種であった。

そして21日の朝にも、テニスコートで死体が発見される。これも犯人らしき足跡がない不可能犯罪であった。これが第三の殺人である。

第三の血 吸血の家

第二の血の最後で第三の殺人の一報が入り、第三の血ではその詳細が描かれる。そしてこの章で、殺人犯と蘭子・黎人とが対峙し、真相が解明される。

単体の物語として

モチーフ

二階堂黎人がモチーフをここまで和風にするのは実は珍しく、その意味で貴重な物語である。ただし、最初の呪いの伝説でわざわざ《血吸い》をさせたり、タイトルを『吸血の家』としたり、和風建築の庭にテニスコートを現出させたりと、洋風テイストにできるだけ寄せようとはしている。この点を不均衡と捉えた場合、作品の評点は辛くなるはずだ。個人的にはほとんど気にならなかった。いいじゃないですか、和風建築の屋敷の庭にテニスコートがあっても。そんなこと言い出したら、畳の部屋にテレビなんか置けなくなりまっせ。また《血吸い》も、飢餓状態に追いやられた姫が行うのが人肉食ではなく吸血なのも理由付けがなされているので、問題は特に感じない。

ただし、この和のテイストと、足跡のないテニスコートの殺人は、若干食い合わせが悪いようには感じられた。血吸い姫伝説を持ち出してテニスコートは、雰囲気が少し壊れるようには思います。変に伝説を出さずに足跡のない殺人だけに絞ったらこの弱点はなくなるが、その代わりに犯人側のアレがやりづらくなるから痛し痒し。難しい。とはいえこれはいちゃ文の類であり、モチーフによっておどろおどろしい雰囲気を出せているし、そこをベースにして哀しみの空気感も引き出せているので、問題なく奏功していると思います。モチーフの湛える雰囲気が、真相のそれと絶妙に共鳴している点は高く評価したい。

トリック等

何といっても第一の事件のトリックが鮮烈で、長く記憶に残る。私も忘れていなかった。他方、第二・第三の事件のトリックは、そこまで鮮烈ではないし偶然に頼った面もあるのが気にはなるが、十分に納得できるロジックで、現実味のあるトリックが披露される。素直に良い。

全体的には、複合的な要素が絡まり合って事件が発生しているのが興味深い。最初から二階堂黎人二階堂黎人だった、ということがはっきり示されているように思う。事件の真相を単純化できないのだ。一行で説明しつくすのは全く無理です。ただし、訳が分からないほど複雑というわけでもなく、読んでいると結構わかりやすいのだ。何回読んでも真相がよくわからない作品、ありますからね。その点、二階堂黎人は大丈夫です。

冒頭の女の行動

二階堂家に報せを告げに行くのは良い。事件における立ち位置が彼女のような人物であれば、そうしたいときもあるでしょう。問題はなぜ《紫煙》に行ったかである。これがよくわからない。

足跡のない殺人の講義

蘭子により、足跡のない殺人についての講義が実施される。これは状況の整理としてなされるわけだが、これだけで結構楽しい。本格ミステリ・フリークならにやりとさせられる。なお蘭子は、高木彬光は社会派に逃げたことがあるから評価しない旨を述べており、狭量を感じる。

注記

本書のもう一つの特徴は、注記が章ごとに付されているということだ。これがなかなか面白い。伏線として機能するもの、真相解明章で伏線を指摘するものの他、黎人の推理小説観が垣間見れる過去作品への評価であるものもかなりあって、二階堂黎人が『吸血の家』をどう位置付けたいのかがうっすらわかるようになっている。これは効果を上げていて◎。

なお、注記の中には、マイクロフト・ホームズに関するものがある。これだけが、ノリが砕けている。

*12 ホームズの兄だよ。お兄さんだよ。

一体どうした? ここだけ完全に冗談のように砕けた態度になっている。他の注記は冷静なのに。注記以外の黎人の記述全体を見渡しても、ここだけテンションがおかしい。マイクロフト・ホームズに、黎人か二階堂黎人は、何か妙で個人的な奇縁や思い入れがあるのだろうか。あるなら語ってくれ。ということで、ここは戸惑いました。

幕切れについて

某人物の最後の選択は、初読時は少し不満で、当該人物はもっと自由に振舞っても良いのではと感じたことを思い出した。だが今は違う。既に立派な中年男性である私にとって、もう今更そっちに行くのは面倒なのは痛いほどわかるのだ。いかに名探偵とはいえ、19歳の親戚のお子様(蘭子)に、未来を見るべきだと偉そうなことを言われて感じるのは、崇敬でも怒りでもなく、年長者視点からの「まだ若いな。眩しいな」という微笑ましさだ。私ならその場で笑ってしまうだろう。冷笑、嘲笑、失笑ではなくて。

二階堂蘭子サーガとして

雅宮家との関係

雅宮家の人物で最初に登場するのは、三姉妹の長女・絃子である。彼女は本当に最初の方で登場する。黎人が帰宅すると出迎えるのだ。何なら語り手に「黎人さん」と呼ばわって、この物語で黎人の名前を最初に出す人物ですらある。

なぜ絃子が二階堂家に出て来たか。実は二階堂家は、黎人・蘭子兄妹の親である陵介・鏡子が不在にしており、絃子は二人のためにご飯を作りに来ているのである。彼女は――つまり雅宮家の美人三姉妹は鏡子の又従姉妹である。それだけ聞いたら遠縁だが、自分の不在時に子供の世話を頼んでいる。それに応えて、絃子はわざわざ二階堂邸までやって来て家事をするのだ。刑事たちが来たらお茶出しまでする。めっちゃ親しい親戚じゃないですか。

私事で恐縮だが、私も母の調子が悪かった時に、伯母(もう故人だ)に食事を作ってもらっていた時期がある。伯母には、親戚の中でも特別な想いがある。葬式でも他の親戚のそれ以上にしんみりしたものだ。

そのレベルの親しい一家がこんな大事件に巻き込まれるというのに、黎人と蘭子の親戚としての反応は薄い。彼らだけではなく、その両親の反応も本書では記載されておらず、ひょっとするとこれまた反応が薄いのではないかと疑われる。二階堂一家はどうなっているんだと言いたいところだが、兄妹に関しては、推理小説談議に花を咲かせる《推理小説研究会》所属の二十歳前後の学生は、リアルタイムではこんなものかもしれない。残りの人生のどこかで、違う考えに至るのかもしれない。

父母については、そもそも登場しておらず反応が伝えられていない。

ただいずれにせよ、二階堂家にとっても雅宮家の事件は我が事に近い大事件であったはずで、何らかの心理的影響が残ってもおかしくない。今後はそういう目線でサーガを読んでいきたい。

二階堂蘭子

態度、立場

気にならないと言えば嘘になるのが、二階堂蘭子の立ち位置である。彼女は弱冠19歳の未成年(当時)の女子大生に過ぎない。もちろん義父が警視庁の幹部なので、一定の範囲に七光りは及ぶ。これまでにも難事件の謎を解いているので、名探偵としての実績もあるだろう。しかしそれでもなお、蘭子は特別に扱われ過ぎているように思う。

-休日に警部を呼び付け、過去の事件を説明させる。

-事件現場から自由に出入り。しかも当該事件の関係者の親しい親戚であり、浄霊会にも出席するなどしている。本来なら事件関係者として扱われてもおかしくない。ところが警察は、彼女を警察側の身内として扱う。

  • 紫煙》に来た謎の女から拘りを持たれる。
  • 犯人からも拘られている形跡あり。
  • 名探偵とはどうあるべきか、的な会話が作中に横溢する。

蘭子は社会的には19歳の小娘に過ぎない。しかもこの作品は、鮎川哲也賞応募作、つまりはデビュー前の処女作に近い。その中で、彼女が名探偵なので特別扱いされた描写を重ねられると違和感が生じるのはやむを得ないことだ。鮎川賞選考委員も、この点は気になったのではないか。

とはいえ、二階堂蘭子がメタ的にも実績を積んだ今読めば、違和感はそれほどない。

意味不明な行動

本事件の犯人は、千々に乱れた心境を吐露した手紙を蘭子に残す。問題にしたいのはその取扱いである。

蘭子は、私が読み終わった後で、この手紙に火を点けた。擦ったマッチを近づけると、手紙は角の方から簡単に燃え上がった。

蘭子は、いつまでもいつまでも、唇を噛みしめながら、灰皿の上で燃えていく手紙の様子を見つめていた。

なんで燃やすの?

犯人の手紙は、千々に乱れた自らの心境を蘭子個人に赤裸々に吐露した、生々しくも胸に響くものである。この犯人と蘭子の関係性や因縁は、蘭子が蘭子であるからこそ生じている。犯人の動機をここで言うつもりはないですが、仮に、仮にですよ、犯人が邪知暴虐そのものだったとしても、燃やすのは明らかに違うんじゃないか。手紙を燃やして彼女は前に進むというのだろうか。極めて親しい親戚が一家全体で巻き込まれている、蘭子にとっても他人事ではないはずの事件なのに。それとも、雅宮家なんかどうでもよかったんですかね彼女にとっては。お前の母親不在時に、わざわざ家までやって来て飯を作ってくれた親戚のおばさんは、雅宮絃子なんだぞ。その事件の犯人でこれか。

……それとも、二階堂蘭子は、親戚の事なんかどうでも良いのだろうか。雅宮家は母親筋の親戚である。ということは、義母の事もどうでも良いのだろうか。義父の事は? 義兄の事は?

私は二階堂蘭子を非難したいわけではない。明らかにおかしい行動を当然のような顔をして、いやそれどころか厳粛な表情で遂行する彼女のことを、隠れた性格破綻者ではないかと疑っているだけだ。ホームズの例を引くまでもなく、名探偵にはそのような側面を持つ人物が多い。だから、このような「疑い」は、サーガに謳われる名探偵としての彼女の魅力を増しこそすれ、減らしはしないのである。

黎人

刑事、蘭子に加えて事件関係者ともよく会話し、捜査に関与しようとしている。ワトソン役としては積極性があって良いと思います。ただし蘭子を探偵として信奉している気配は既に強い。外れる推理を披露して蘭子等に否定されるのを繰り返すのも、私は彼がわざと間違えることで、蘭子を立ているのではと疑っている。なぜなら、これほどの蘭子シンパであれば、自分を含めた蘭子以外の人物が謎を解くのを嫌がるはずであるからだ。本当に自分が真相を看破できたと思ったならば、蘭子に気付かせるためにサポートに回る可能性が高い。少なくとも、事件を解明できたと関係者の前で得々と推理を披露したりはしないだろう。ただし、『吸血の家』で黎人が披露する推理は、あからさまに外れだとわかるものではなく、蘭子による、外れだという指摘それ自体が読み応えのあるものになっている。作者はこの点で手を抜くことはしていない。

クライマックスでは実質的に荒事を担当しており、フィジカル面では割と心強い(蘭子は悲鳴を上げているだけ)。

ということで、結構活躍しているな、という印象である。下線部の迷解釈については、いったんそうと仮定して他の作品も読んでいきたいと思います。

二階堂陵介、鏡子

本書では登場しない。前者はお仕事、後者は洋行中である。実の息子と義理の娘が親しい親戚の家での殺人事件の現場にいるというのに、完全に放置している。情愛のある親子関係ならば通常はあり得ないが、恐らく「蘭子が名探偵として既に実績を得ており、黎人はすっかりその助手である」事実を信頼してのことだろうと推定しておきます。

親しい親戚に対するスタンスが見えないのは上述の通り。

両親については、もう一つ気になることがあるが、こちらは真相に触れないと書けないので、今回は省きます。

中村警部

彼をはじめ警察が特段の無能とは感じなかった。邸内で二回目の殺人(第三の殺人)を許したのは失点だし、終盤の荒事も止められはしただろう。しかし、ではどうやったら防げたのか具体的に考えると、なかなか難しい。そして、中村警部が真面目な正義感で、おまけに誠実な人物なのも確かなところである。これはこれで良い人物造形だと思います。

ただ、24年前の事件を蘭子たちに話すのを当初嫌がっていた理由が、私にはよくわからない。捜査情報を素人のガキに話せるか、というわけではない。恐ろしい未解決事件だから嫌だった、ということのようだが、それを今更、日常的に事件情報をやり取りしている蘭子と黎人相手に言うのか。実際の理由は他に何かあるのではないか。

村上刑事

雅宮三姉妹はいずれ劣らぬ美女揃いという設定である。この三姉妹に最もポワンとしてしまうのが村上刑事である。絃子との初対面では、なんて美しい人なんだと呟いてしまうし、三姉妹の亡き母に話が及んだら、三姉妹と比べてどうだったかなどと訊いてしまう。お前は一体何をしに来たんだ。

とはいえ、仕事自体は、中村警部同様、誠実にこなそうとしている。後半では功労者とも言える活躍を見せてくれる。蘭子や黎人が彼に一定の信頼を寄せているように見えるのも、むべなるかなだ。

貝山店主(船長)、玉絵、朱鷺沢教授、三峰助教

紫煙》の店長、その娘で店員、《推理小説研究会》の顧問、その助手である。《紫煙》で登場して以降は出て来ないので、この話では名前を覚えておく必要はないが、他の話で出て来るかもしれないので、記載しておきます。

総評等

新本格の一翼を担う作家、いやもっと言えば、一時代を画したムーブメントの一翼を担う作家のデビュー作に相応しい、完成度の高い逸品だと思う。もちろん若干の小説上の欠点と呼べそうなものはあるが、本格ミステリとしての完成度は高い。トリックも鮮烈、キャラクターも相応に印象的だ。

二階堂蘭子が最初から名探偵として下にも置かぬ扱いを受けているのは、違和感を覚えられても仕方がない弱点である。それ以外の点では、広くオススメできる名作だ。第一の殺人が一番鮮烈とはいえ、第二第三の殺人も水準以上の良いトリックなのもポイントと言えよう。

*1:字義通り、単に再び評価したい、という趣旨である。故意に高く評価したいと言っているわけではない。もちろん結果的にそうなるなら、誰にとっても幸福なだけだ。

*2:実際にこの日は金曜日である。

*3:私が気象庁のデータベースの見方を間違えていない限り、この日は史実では降雪していない。雨もたぶんなさそう。あったとしてもごく僅か。でもまあこれは別に突っ込むべき事項ではない。一方、「二階堂蘭子シリーズは、何から何まで現実世界と同じである必要はない」ことを早々に示したとも解釈でき、無視して良いとまでは言い切れない。

*4:実在する。