不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

カンタベリー物語 尼僧付の僧の物語/チョーサー

尼僧付の僧の物語の序

おやめなさい! あなたのお話はもうよろしい!

騎士がこう言って(割と直球)、修道僧の話を止める。理由として、没落を聞くのは非常に痛々しいことを挙げている。逆に貧しい境遇の人が昇りつめて繁栄する話は楽しいので、そっちが良いと言う。宿の主人も同調して、済んだことを嘆いても仕方がない(大意)と言う。悲しいことを聞くのは苦痛だと言う。だったら尼僧院長の話も止めろよと思うが、中世人の感覚はこういう細かい部分がよくわからない。

宿の主人は更に言い募る。聞くのが苦痛だし退屈、手綱の鈴を鳴っていなかったら寝て落馬していたところだとまで言う。知らなかったはずの修道僧の名前(ピエルス殿)で呼び掛けさえする。そして、何か狩猟の話でもしてくれと言う(たぶん修道僧に)。そして恐らく修道僧は、断って、ふざけるような気分ではないから、他の人に話をさせれば良いと返事をする。ぶんむくれだ。

宿の主人は、それならばと、尼僧付の僧ジョンにこちらに来てと呼び掛けて、楽しい話を所望する。尼僧付の僧は応じて、話を始める。チョーサーは彼のことを「愛する僧、善良なる人ジョン」と書いている。好意は明らかだ。

なおこのパートで、宿の主人は「聖ポールの鐘にかけて」と喋る場面がある。聖ポール聖堂は当時からあったわけだ。もちろん今の建物になる前のものだろうが、まあやっぱり歴史がとてもあるということなのだろう。

尼僧付の僧の物語

彼が語るのは、雄鶏と雌鶏である、チャンテクレールとペルテローテの物語である。

田舎に住む少々年老いたその寡婦は、夫の死後、娘二人と一緒に貧しくも質素に暮らしていた。彼女はチャンテクレールという雄鶏を飼っていた。時を告げる鳴き声は正確そのもの、外見も良く、七羽の雌鶏を従えていた。その雌鶏の中でも最も美しいのがペルテローテであった。二羽は相思相愛であった。

ある明け方、チャンテクレールが酷く悩んでいるように唸ったのでペルテローテは驚く。チャンテクレールは、獣に襲われ殺される悪夢を見ていた。それを聞いたペルテローテは、夢を恐れるなど臆病過ぎるとドン引きする。そして、胆汁がたまり過ぎたのだろうから、上からも下からも下す薬を飲むべきだと助言する。

雄鶏はこの助言に一応感謝するが、友人が殺害される夢や、友が難波する夢、自分が殺される夢などなど、悪い夢が正夢になったという、本で読んだエピソードを紹介し、引き続き夢に怯える。さらに、下剤なんかくそくらえです(ママ)という。しかし彼は、止まり木でペルテローテと密着しているため機嫌がよくなってきて、夢だってくそくらえという気持ちです(ママ)と言って地面へ飛び降り、餌をついばみ始めた。

やがてこのチャンテクレールは、ペルテローテの庭で歩こうという提案に従い。雌鶏たちと共に庭に出た。そこには運悪く、狡猾な黒狐ラッセル卿が潜んでいた。尼僧付の僧はここで、女性の助言はしばしば致命的だと唐突に言い始めるが、これは鶏の話であって女性の忠告を非難するのは雄鶏だ、自分の言葉ではないとよくわからない言い訳を始める。

黒狐に気付いたチャンテクレールは逃げ出そうとするが、黒狐はすかさず遜った態度を取り、チャンテクレールの歌声を絶賛し始める。チャンテクレールは歌を披露腺と首を伸ばしつま先で高く立ち、目を閉じた。やにわにラッセル卿は彼の首に食いつき、森の中へ引きずり込もうとする。

雌鶏たちの騒ぎに気付いた飼い主の寡婦と娘二人は、狐を目撃して、後を追う。近所の人々も加勢する。

その様子を見ていたチャンテクレールは、狐に対して、自分だったらあいつらを言葉で追い払うし、雄鶏をすぐに食うと言う。狐は「本当に、そうしてやろう」と発話してしまい、咥えていたチャンテクレールの首を話してしまう。チャンテクレールはすかさず逃げ出し、樹上に飛び上がる。すると狐はまた阿った態度に出るが、雄鶏はさすがにもう騙されない。

「目をあけて見なければならん時に、すすんで目を閉じるものなんぞには、神様、どうか不幸をお与えください」

「いやそうじゃない」狐は言いました。「沈黙しなりゃならない時におしゃべりをするような。自制力に欠けている奴こそ、神様、不幸をお与え下さい、だ」

かくして勝負(?)は痛み分けに終わる。いや逃げられたから狐の負けか? 尼僧付の僧はここで、狐・鶏の話だと思っている人も教訓を取るよう頼む。

尼僧付の僧の物語への跋

宿の主人は、(なぜか)尼僧付の僧のズボンに祝福あれと言い、楽しかったと褒める。彼の筋肉も褒める。僧が俗人だったら種鶏になったろうにと残念そうである。そして、次の語り手に尼僧を指名する。

総評等

女性云々はほぼ関係がない話である。散歩しようと提案してその途中に敵に襲われた場合、散歩を提案した者が悪いとなるのはよく理解できない。それ以外はなかなか面白い御伽噺であった。