不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

カンタベリー物語 騎士の物語/チョーサー

騎士に対する振りと、これに対する騎士の所信表明(出発するから話はよく聞いておいてくれよ、ぐらいなものだが)は総序の歌で済ませているため、このパートは最初から騎士の語りからスタートする。すなわち、チョーサー視点の文章は含まれていない。

騎士が語るのは古の物語で、四部構成である。

騎士の物語ここに始まる。

アテネの王侯にして支配者セシウスが、女人国スキタイを滅ぼし、その女王ヒポリタと結婚して、ヒポリタ及びその妹エレーネ姫と共にアテネへ凱旋しようとしている。その道中で、テーベの支配者クレオンの暴虐を訴える女性たちの訴えを聞き届けて、セシウスはクレオンを討つ。その戦いで、パラモンとアルシーテという二人の騎士が捕縛される。彼らは「いとこ(比喩かもしれない)」の間柄の、テーベの王侯に連なる高貴な人間であり、かつお互い刎頚の友と呼び合っていた。彼らはアテネの塔に幽閉される。そこでパラモンは、窓から見える庭に出て来たエミリー姫をを見て、一目惚れして叫んでしまう。アルシーテはパラモンの尋常ならざる様子を見て「どないしたんや(大意)」と訊き、パラモンは「あの美女に惚れたんだ(大意)」と返し、アルシーテは庭にいるエミリーに視線をやってしまう。その結果、アルシーテも見事にエミリーに一目惚れしてしまい、しかもそのことを即時パラモンに白状してしまうのだ。二人はお互いを裏切り者だと非難し合い、ここで二人は恋のライバルとなる。やがてアルシーテは、友人ペロセウス大公がセシウスに懇願したことで、釈放される。ただしその条件は、今後一生、セシウスの支配地に入るなというものだった。アルシーテは「じゃあセシウスの支配地に住むエミリー姫を見ることすら叶わないじゃん、今後も見ることができるパラモンが羨ましい(大意)」と嘆く。一方パラモンは「アルシーテは自由にテーベを闊歩してひょっとするとエミリーを妻にすることもできるかもしれないのに、俺は捕まったままだ(大意)」と嘆く。

ひとりは毎日愛する人を見ることはできますがいつまでも牢獄に留まらなければなりません。もうひとりは好きな場所にはどこへでも行けるのに、もはや二度と愛する人を見ることはできません。

まあ私も友人と同じ相手に惚れた経験がないわけではないので、アルシーテとパラモンの苦しい胸の内が全くわからないとは言わない。この二人が本当に胸が苦しいんだったらな。実際には二人の騎士は同日に一目惚れして同日にお互いの慕情を認識し、敵対関係に陥る。アルシーテ釈放に対する反応も、お互いに対する敵愾心と嫉妬心剥き出しであり、友情と恋の間にジレンマがあるようには見えない。二人とも見事に恋を優先します。友情? 何それ美味しいの? でもこれが人間の本質かもしれないなんて思ったり思わなかったりしました。いやあ実際、友情のために恋愛を諦める奴をほとんど見たことがない。皆さんも、友情のために諦める恋愛なんて本当の恋愛ではないとか思っているのではないかしら。この点は13世紀でも一緒なんですなあ。この物語の舞台は恐らく紀元前とはいえ、騎士道的な振る舞いが重視されるなどして、内実には同時代(14世紀)の常識良識が色濃く反映されているので、「騎士の物語」における登場人物の倫理観は14世紀のそれと解釈して良いと思います。

なお恋の対象のエミリー姫は、第一部では美しいことしか描写されません。性格が推測できるような描写はほぼないです。また彼女は言うまでもなく「姫君」です。虜囚のお二人はなんでこの雲の上の姫君にガチ恋できるんでしょうか。それともこの二人はそこまで身分が高いのか。まあエミリーの身分を知らない可能性もあるし、亡国の姫君にしてアテネの支配者の妻(元女王)の妹、という立場をどう理解すればよいかもよくわからないが。後者については21世紀の視点を持ち出すまでもなく、14世紀人からしても位置づけには難渋するでしょう。

第二部これに続く。

テーベで一、二年、嘆き悲しんで暮らしていたアルシーテは、夢枕にマーキュリー神が立ってアテネに行けと言ってきたので、飛び起きて早速アテネに潜入し、フィロストラーテという偽名でセシウスの宮廷に仕えるようになる。一、二年をエミリー姫の部屋付小姓として働き(キモ過ぎない?)、評判を得て、セシウスの近侍にまで出世。一方、パラモンは投獄から七年後に脱獄して、茂みに潜んだ。ちょうどこのとき、アルシーテは朝で気分が良いからとこの茂みにやって来て歌を歌う。不倶戴天の敵に仕える我が身、偽名を使わざるを得ない我が身、恋の苦しみを歌う。そこでこの声の主がアルシーテだと気付いたパラモンは、決闘を要求。アルシーテは受諾するが、逃亡中のパラモンの腹ごしらえや武装の準備もしてきてやるとして、翌日の再会を約束する。さてその翌日、二人は同じ場所にやって来て、武装を手伝い合ったりした後に決闘を開始する。勝負はなかなか付かない。この決闘に、近くで狩りをしていたセシウス(妃とその妹エミリーも帯同)が気が付きやって来て、とりあえず矛を収めさせる。パラモンはフィロストラーテがアルシーテであることをばらし、二人ともエミリーに恋をしていることをばらし、自分を死刑してくれ、でもアルシーテも殺してくれと懇願する。というわけで、今初めて事実を知ったセシウスは、パラモンの言う通り二人を死罪にすると宣言するが、妃とエミリーが二人を憐れんで涙を流し、一緒に来ていたらしい婦人たちも慈悲を乞い、セシウス公は頭が冷えて同情心を刺激されて翻意。今後自国に敵対しないなら許すとし、エミリー姫が二人と結婚するのは無理なのだから、一年後にそれぞれ百人の騎士を連れて来て馬上槍試合を行い、勝者(相手を殺すか、試合場から追い出すかした者)にエミリーを嫁がせることにすると宣言する。アルシーテとパラモンは喜色満面でセシウス公に感謝して、テーベへの帰路に着くのだった。

恋のために相手を殺すことには躊躇がないが、卑怯な手を使う発想がアルシーテ・パラモン共に全くないのは面白い。古代ギリシアならば卑怯な手をどちらかが使いそうなものであるが、これは騎士道精神が正義の道とされた中世に作られた物語だからか、二人とも嫉妬は苛烈ながら悪感情が尾を引かない。潔いとも言えるかもしれない。なお二人の事情をセシウス公に訴えるのが専らパラモンで、アルシーテが喋っている気配がないなのは、後の展開を考えると興味深い。

エミリー姫については、お前それでいいのか、という気はします。隠した恋心が七年は長いなあ。特にアルシーテさんは気持ち悪くないですか。いやまあ本人が良いんだったら良いんですけれど。

第三部これに続く。

約束した試合のため、セシウス公は、アルシーテとパラモンが巨大な円形試合場を造営する。円周1マイルで外堀を巡らし、柱の高さは60ヤード。神殿も付随する上に、神話の像や壁画で彩られて見る者を圧巻する。なぜか、この物語から見れば後代になるジュリアス・シーザー、大ネロ、アントニー*1も描かれているが、その死は星図で示されていたからという理由付けがなされている。そしてアルシーテとパラモンも、試合のためにそれぞれ百人の騎士を連れてやって来た。貴婦人のために戦うのは騎士道の誉れであり、試合に参加したいという希望者が引きも切らなかったようである。パラモンの仲間には、トラキア王リクルゴスがいた。アルシーテの仲間には、インドの王エメトレウスがいた。彼ら騎士たちは、アテネに宿泊する。そしてパラモン、エミリー、アルシーテは神殿にてそれぞれ祈る。パラモンはヴィーナスに「わたくしにわが愛する人をお与え下さいませ」と祈り、ヴィーナス像は震える。エミリー姫は、ダイアナ相手に、傷害乙女であることを誓っていたのに何てことだ、でもどうしてもということなのであれば「わたくしを最も望んでおられる方をわたくしにお与え下さいませ」と祈った。そうするとダイアナ神が顕現し、誰かはまだ言えないがエミリーを最も愛している人間と結婚してもらう(大意)とエミリーに伝える。アルシーテは軍神マルスに祈りを捧げ、マルスがヴィーナスと激しい恋をしたこと、その浮気現場でヴィーヌスの夫ヴルカーヌスが二柱に網をかけたこと(網で捕まえられて恥をかいた当事者のマルス相手に言及する必要あった?)、自分の愛をエミリーが嘉納するには勝たねばならぬことを語り、「われに勝利を」と祈る。そうするとマルス神殿のあちこちが震え、遂に「勝利」とのささやき声も聞こえる。一方、天界ではヴィーナスとマルスの争いが始まり、主神ジュピターはおおわらわで、サターンの神*2は悪巧みを始め、ヴィーナスに対して、パラモンがその愛する人を得るよう助力してやろうと言う。

試合場が巨大である。東京ドームは外周700メートルで高さ56メートル、東京オリンピック2020で建てたあの評判最悪の国立競技場の外周は1000メートル、高さ47メートル。ローマのコロッセオでは外周が500メートル台、高さが48メートル。ちなみにアテネパルテノン神殿が70×30メートルで柱の高さは10メートルちょい。試合場はこれらよりも大きい。やり過ぎではあるものの、諸元を突いてもあまり意味はない。「とにかくでかかった」ぐらいに解釈すればよろしいでしょう。

星座がどうこうという理由付けで、後代の人間を壁画に描いたりしているのは面白い。現代人からしてみればアホちゃう、という感覚であるが、13世紀において占星術天文学その他と同じカテゴリの「ちゃんとした学問」であり、この点は総序の歌でも登場人物紹介時に明記されている。だからここで読者が感じるべき感想は「んなアホな」ではなく「高度に発展した占星術天文学ならばそういうこともあるだろう」であり、「そんなところまで押さえているセシウス公とアテネすげえ」に他ならない。作者の指定する感想に読者として乗っかるのは基本的には業腹だが、今回はさすがに彼我の時代差が甚だしいため、言われたとおりに感心しておきます。

そして三者三葉の願い事が実に興味深い。「騎士の物語」のドラマ上のキーはここだと思います。いずれも微妙に願い事の言い回しが違うので、神々がこの間隙を縫ってくることは必定であるように思える。21世紀の読書人である私はそう勘づきますが、14世紀の人々はどう捉えたのでしょうか。英語とは文字が読める以上、物語経験値も高いだろうから私と同様に一定の予想は付いたのでしょうか。なお天上の諍いが、以前は熱愛の間柄であったヴィーナスとマルスとの間のものであるのは興味深い。ただし興味深いだけで、この点は後の展開でもあまりクローズアップされない。説明されないシンボライズが何かあるのかしら。

第三部のもう一つの特徴は、エミリーが遂に自分の言葉で喋った点にあります。第四部でも台詞はないので、物語全体で彼女の言葉が書かれているのはここだけです。理由はよくわからないが、一生処女のまま生きると誓っていたのですね。それで「試合に勝った方と結婚する」と義兄の大公に決められるのは可哀そうです。論理的には、二人が決闘していた際に慈悲を乞わなければ結婚しなくても良かったはずだが、見殺しにすべきだったとエミリーに言ってしまうのも人倫にもとる。そしてエミリーは、ダイアナの指示に平伏して受諾してしまう。自分の希望を神に祈っているので主体性がないとは言わないが、「処女でありたい」という第一希望ではなく、「自分を一番愛してくれる人と結婚するようにしてくれ」という第二希望を願っており、我は弱いです。女性の自己決定権は否定された物語であることがよくわかります。彼女相手にだけ、祈った神が直接現れているのは、貴婦人への配慮なのでしょうか。もちろん、現代でも通用するような配慮ではなく、男性都合の憐れみでしかないのは、お断りしておかねばなりませんが。

第四部これに続く。

アテネの五月の祭は盛大に開催された。その中で行われる馬上槍試合の参加者は、街のあちこちで耳目を引く。試合当日の朝、式部官がセシウス公の意志としてルールを公表する。殺してはならない。捕まえられた者は杭に留められる(つまりそれ以後は試合に参加不可)。勝利条件は大将が捕まるか、殺されるかである*3。試合会場では、セシウス公一行が感染する中、いよいよ試合が始まる。両者の実力は伯仲し熱戦が繰り広げられる中、エメトレウス王がパラモンを捕まえた。リクルゴスが助けに来るがあえなく落馬、エメトレウスもパラモンに与えられたダメージが元で引きずりおろされるが、結局パラモンは逃げられず、杭の所に留められてしまった。アルシーテ側の勝利であり、セシウス公は試合終了を告げる。天界ではヴィーヌスが嘆くが、サターンは地の怪物を馬の足元から飛び出させて、勝利に沸くアルシーテを頭から落馬させた。アルシーテは大怪我を負い、宮殿へと運ばれた。試合参加者は試合会場からアテネに戻り、セシウス公は彼らのために三日三晩の大宴会を開き、褒章も渡した。一方、勝利者アルシーテの怪我は致命傷であった。アルシーテは、枕元にエミリーとパラモンを呼び寄せ、悲しみを述べた後、エミリーの夫としてパラモンを推して、エミリーと叫んで息を引き取る。エミリーとパラモンは嘆き悲しみ、アテネ市民も悲嘆に暮れ、セシウス公は盛大な葬儀を営む。数年後、テーベを服属させることになったアテネの議会で、セシウスは演説してパラモンとエミリーを結婚させる。二人は幸せに暮らしましたとさ、と解釈できる段落でこの物語は締めくくられる。

第三部の微妙に異なる三人の願いがそれぞれ実現している。パラモンは愛する人を得た。アルシーテは勝利した。アルシーテが亡くなった以上、二人の騎士のどちらがエミリーをより望むのかという問いは無意味となり、エミリーの願いも叶えられた(第一希望の願いが最初から無視されているのは気になるが、ここでは繰り返すまい)。

最期に友情が見れてよかった、と言いたい気持ちもあるのだが、致命傷(頭部に加えて胸部も潰れている)を負ったのにアルシーテは結構粘った感があり、その理由はやはりまだ死にたくはなかった、エミリーを手に入れたかったのだろうなと思うと、単純に爽やかに読み終えるのも憚られる。そしてエミリーは、相変わらずそれほどの主体性が感じられない。落馬直前の勝者アルシーテには微笑み――しかも「女性は一般的に運命の女神に従うものだ」などと語り手の騎士に付言され、アルシーテが死んだら悲嘆は深い。でもそんなに交流なかったよね。加えて、まあ議会で長々と「結婚しろ(大意)」という演説を義兄とはいえ首長にぶち上げられては拒みづらいとは思うが、言われたとおりにパラモンと結婚してしまうのを見ると、モニョります。パラモンとそんなに仲良くもなってなかったですよね。パラモンは議会に呼ばれてテーベから来ているのだし(つまりアテネに住んでエミリーと日常的に合って親交を深める、なんてことはやっていない)。

あと、虜囚7年+試合まで1年+結婚まで数年ということなので、アルシーテとパラモンがエミリー姫を見初めてから最低でも10年経過しています。さすがに時間をかけ過ぎではないかと思いました。エミリーの姫(王侯)としての位置づけがよくわからないので、政略結婚で使われる人材なのか不透明ですが、でもまあ輿入れの話は出て来てもおかしくないわなあ、特に最初の7年間は、と思いました。試合までの1年はまあしょうがないです。予約が入ったようなものだ。やっぱり問題は最初の7年です。この間他の男に目を付けられず婚姻的な意味で放置されるということは、最初はエミリーはとんでもなく幼かったということでしょうか。どうもそんな感じは受けないんですよねえ。それとも、神への祈りの際に言っていた「乙女であり続ける」という姿勢を公言していたのでしょうか。それだと、「じゃあセシウスはなぜアルシーテかパラモンに娶らせようとしたのか」という問題が出て来てしまう。

総評等

起承転結が明快なのは見事だと思う。特に、神頼みでの言い方が今後の展開に大きな影響を与える第三部は、間違いなく「転」として機能している。何らかの含意が最も含まれている要素はここなのだと思います。三人の性格が出ている。特に、アルシーテとパラモンは違いが結構大きい。「彼女が欲しい」「競争相手に勝ちたい」では、結果は一見同じようでいて、全く違う願いである。実際、神の介入により、結果も全く異なるものとなった。

興味深いのは、アルシーテの恋愛観である。彼は一貫して、恋に切なさ、苦しみ、悲しみを感じているようなのだ。

一目惚れした時からして、これ。

アルシーテは一息、溜息をつくと憐れげな声で言いました、「あのむこうの庭を逍遥し ている女性の新鮮な美しさが突如としてわたしを殺してしまう」

釈放された時も悲しいとは言っているが、これはパラモンを羨ましがってのことだから除外し、次はフィロストラーテとして伺候後の茂みの中での嘆きだ。

愛の神は火の矢をひどく燃えたまま、わたしの正真正銘の、切ない心臓に突き刺したの だ。こうしてわたしの死は、生れる前から定められていたわけだ。 エミリー姫よ、あなたはわたしをその目で殺すのです。あなたこそわたしの死の原因なのだ。

マルスへの祈りの中身にはこういうものが混じっている。

*4の心に感ぜしその悲しみにかけて、わが激しき苦痛にも同様、憐れみを与え給え。わたくしは、あなたも知られるよう、若くして未熟、したがって生きとし生けるいかなる人よりも、恋のためにもっともひどく悩まされていると信じ ます。と申し ますのも、わたくしにこのような悲しみのすべてを耐えさせる彼女は、(後略)

今わの際に至ってはこれである。

いまわのわが悲しい魂は、最も愛するあなたに、わがつらき悲しみのすべてをその一つとしてとても告げることができませ ん。わが最愛の婦人よ。わが生命がもはやこれ以上続かないからには、 わたしはあらゆる人にもましてあなたにわが魂の奉仕を捧げます。 ああ、悲しい。この悲しみ、ああ。あなたのため、しかもかくも長く耐えた悲しみ の何と強いことよ。ああ、死よ、ああ。わがエミリー姫よ。ああ、われらが仲間との別れの切なさ。ああ、わが心の妃よ。ああ、わが妻よ。わが心の婦人よ。わが生命を絶つ 人よ。この世は何なのか。 人は何を得んと求めるのか。

パラモンと恋敵になったことが悲しい、苦しいと言っているのではない。恋そのものに悲哀と苦痛を感じている。彼の悲劇的な結末を予感させるこれ、確かに悲痛もまた恋の本質であるよなあと思わされました。正直、自分の過去の恋愛を色々思い出してしまったな。私が非モテだったからそう思うだけで、もっとモテる人は違うのかもしれない。でもまあ切ない想いが詩や音楽に込められているケースは世に溢れているから、私が社会の中で圧倒的少数派だとは言えないでしょう。そしてそれは、14世紀でも同じだった。

恋愛至上主義がはびこる昨今、恋愛はとかく肯定的に、微笑ましく捉えられがちですが、精神をすり減らす労苦でもあり、常に切なさが付きまとうものでもあります。その点をよく押さえた物語であり、伏線としても見事だと思いました。もちろん、恋愛を否定的に捉えたいと言ってるわけじゃないですよ。

ここまで憂うことはなく、恋する相手を得ることにひたすら邁進した(でも友が死んだ際には嘆いた)パラモンがエミリーと結婚したのは、エミリーにとっては比較的幸せなことだったのかもしれませんね。恋愛は悲痛なものとはいえ、それがメインになってしまう人間は概ね面倒くさいと相場が決まっている。

*1:ユリウス・カエサルローマ皇帝ネロ、第二回三頭政治の一頭にしてクレオパトラの情夫マルクス・アントニウス。言うまでもなく、いずれも古代ギリシアの時代から後の時代の人物である。

*2:悪魔王とされるサタンではなく、その語源であるサトゥルヌス=クロノスと思われます。

*3:殺してはいけないのか、殺してもいいのかどっちやねん、と言いたくなるが、大将だけは違うんですかね。或いは不慮の事故も容認するということなのか。

*4:マルス神のこと。