不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

ミヒャエル・ギーレン/南西ドイツ放送交響楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

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 1996年4月27日、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでのライブ録音。ということは演奏旅行中の一コマということになる。
 オーケストラの音が非常にざらざらしているのが第一の特徴だ。美感にかまけることのない朴訥とした音色であり、これを使って遠慮会釈なく楽想に突っ込んでいく演奏である。メロディーは、その美しさというよりも、音の連なりとしてのドラマトゥルギーを重視しているように聞こえる。フレーズ処理も、どうも旋律線を短めに捉えているようで、呼吸が浅い。第一楽章と第二楽章では、テンポの激しい加減速が追加されている時や、強いレガートがかけられる時があって、随所でギョッとさせられる。第一楽章で一番面白かったのは、序奏部主題のコーダでの回帰部分だ。元々かなり速めのテンポ設定で序奏を突っ切っていた上に、この回帰部で、テンポを落とすどころか逆に加速をかけており、大変パッショネートな表情をこの楽章のコーダに付与する。第二楽章でも、基本テンポをかなり速めに設定した上で、楽想によってテンポを大きく動かしており、他の演奏では見たこともないような雰囲気を引き出している。続く第三楽章と第四楽章は、テンポの動きが落ち着いたが、荒々しい音色でざくざくガツガツ演奏するのは同じで、録音で聴く分には前半楽章に比べて特徴が弱くなった気はするものの、テンションは高めに維持されており、演奏終了後は客席からブラボーが飛んでいるのが聞き取れる。
 というわけで、結構面白く聴けるのだが、個人的にはこの演奏は好まない。テンションは高めだが、粗い音でザクザク土を勢いよく掘り返すように演奏されているので、私の耳にはどうも粗暴に聞こえるのである。加えて、情感面に配慮していない。「旋律を奏でておけば自然に雰囲気が出るはずだ」といった楽譜に対する信頼感から敢えて何もしない、といった風ではなく、ただ単に本当に興味がなさそうなのである。うーん……。
 カップリングは、ヨハン・シュトラウス二世のワルツ《春の声》である。こちらはかなり面白い演奏で、ワルツを壊さない範囲でアーティキュレーションに工夫を凝らし、ギーレンにしてはロマンティックな表情付けと、ドラマティックな展開で、一気に聴かせる。こういうノリで《グレイト》を録音してくれたらよかったんだけどなあ。こちらは1998年9月4日、フライブルクのコンツェルトハウスで録音されているので、ひょっとすると会場の響きの問題かもしれませんが。

ギュンター・ヴァント/北ドイツ放送交響楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

シューベルト:交響曲第9番

シューベルト:交響曲第9番

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 1991年4月21日〜23日、ハンブルクのムジークハレでのライブ録音。
 基本的な解釈はケルン放送交響楽団の時と変わっておらず、特にオーケストラ全体のバランスに関しては細部に至るまで拘り抜いている。ただしこちらの方が遥かに精密な演奏となっていて、音楽全体の流れはより滑らかである。各パートの出す音も美しく、聴感上の違いは相当なものだ。これは解釈が深化したからでもあろうが、最大の要因は、オーケストラが変わったからであろう。北ドイツ放送響の方がほとんどありとあらゆる面で、前回のケルン放送交響楽団よりも質が上である。
 改めてヴァントの解釈の特徴を述べると、感情表現それ自体は控えめであり、具体的な喜怒哀楽をメロディーに乗せて歌う、みたいなことは全く許されていない。代わりに、精妙なパートバランス制御によって音色を変化させ、そこでニュアンスを生むといった手法が採用されている。テンポも楽想に沿って微妙に動かしている。こういう芸風は、ちょっと迂遠で面倒くさいもののように思うのだけれど、瑞々しさが損なわれていないどころか、ケルン盤と比べてもアップしていて興味深い。
 面白いのは、終始音楽が冷静であることだ。熱気が感じられず、テンションは高くもなければ低くもない平常状態を保ち、音楽前甲斐は指揮者によって冷徹に管理監督されている。パッションに加えて、スケール感もさほど出していませんけれど、ヴァントの関心事項は恐らくそこには全くない。いかに精妙に音楽を制御して、楽団員の自主性に全く頼らずに細部のニュアンスを出すか*1という茨の道にひたすら邁進している。そしてそれは十分な成功を収めた。驚くべきは、この録音がライブで為されているということだ。実演ではどうしてもオーケストラは、特に楽曲後半では熱が入ってしまうし、指揮者の統制も緩む可能性が高まるのであるが、ヴァントと北ドイツ放送響はどこ吹く風と、自分たちが為すべきこと(とヴァントが決めたこと)にのみ注力している。結果、時々、夢見るような雰囲気や、今にも消えてしまいそうな儚げな雰囲気が漂う。この演奏の魅力は、なかなか忘れがたい。

*1:自主性を許さない、とイコールではないことに注意されたし。楽団員によるプラスアルファは認めつつも、それがなくてもニュアンスを出せるようにする、ということである。

ヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

 70年代後半に録音された交響曲全集からの1枚である。《グレイト》は1977年6月10日〜12日、ベルリン・フィルハーモニーでのセッション収録となる。
 意外とテンポが速めの第一楽章序奏からスケール豊かな演奏で、黒光りするオーケストラが豪壮華麗に鳴り響く。レガート主体の奏楽であり、第一楽章の主部におけるジュリーニの例のテヌート全開ほどは強烈な印象は残らない(と言うよりも、奏法だけでアレ以上にギョッとさせる演奏はなかなか難しいだろう)ものの、流麗さを最優先にした解釈はなかなかに特徴的である。ただしカラヤンは、流麗なだけではなく、全体の流れを確保した上で、オーケストラの轟音を爆発させたり、ベルリン・フィルの優秀な木管群が見事な音色で花を開かせていくことを求める。よって迫力と魅力が横溢しており、見事という他ない。忘れがたいのは、カラヤンのフレーズ処理の見事さだ。古典派に比べて格段に長い旋律線を、カラヤンは見事に歌い抜いている。オーケストラへの意思浸透も相当なもので、楽器間のメロディーの受け渡しが時々ハッとするほどスムーズなのは特筆ものであろう。もちろん、コブシを利かせての情熱的な耽溺、という意味での《歌い抜き》ではないし、何か具体的な感情を歌に乗せているわけではないが、魅惑的なメロディーを全編に渡ってしっかり提示している。速いテンポで一気に駆け抜けるスケルツォ主部もオーケストラの技術力の高さと相俟って、圧倒的である。フィナーレはもはや何をかいわんや。この楽章の細かいモチーフをミニマリスティックな構造単位と捉えるか、小さなメロディーと捉えるかで演奏効果がだいぶ変わって来るが、カラヤンは後者の路線を採用している。ただしフレーズの息を長めにとっているので、遠大・壮大な音楽になっているのが面白い。弾みはしないが驀進する演奏で、一気呵成に聴かせるテンションの高さは特筆ものである。聴き手は、大変にエキサイティングな音楽体験ができると思います。
 交響曲全集としては、初期交響曲の大ぶりな表現が面白い。カラヤン一流の重厚壮麗なサウンドと表現で一貫しており、威力的なベルリン・フィルが堂々と鳴り響いている。奔流のように轟き渡る時もあって、豪快な局面すら登場、迫力満点である。というわけで、演奏が楽曲のスケールに明らかに合致していない――はずなのだが、これが意外とイケてしまうのが不思議なところだ。違和感がないわけではないのだが、何というか、こういうのもアリかも、と思ってしまうのである。よく考えるとここまでベルリン・フィルを重厚に鳴らすこと自体、結局カラヤン以外では誰もできなかった*1わけで、シューベルトの初期交響曲をこう解釈する指揮者なんか今後出て来ないだろうし、カラヤン以前にもまるでいなかったわけで、希少価値満点である。オーケストラが結構ノリノリなのも面白い。フレーズの息を長めにとっているので、シューベルトの旋律線自体をたっぷり味わうことができるのも良い。というか、カラヤンは壮麗な音響と同時に、フレージングをしっかり計算して息長く旋律を歌うこと――情緒に満ちた歌い方ではないが――を特徴とする指揮者である。前者はともかく後者はシューベルトの初期交響曲にもハマっており、それが本全集の不思議な説得力の源泉になっているのではないか。レガートが強いなあという箇所もあるけれど、決して下品にはなっていないのは偉とすべきでしょう。なお第6番のフィナーレはテンポ設定が目立って遅い。それがメロディーをより活かすことに繋がっていて、唸らされました。ここは「なるほど本来はこういう曲なのか」と呟きそうになったぐらいです。
 そして《未完成》、これはカラヤンの芸風と曲の持ち味がぴったり合っていて、ちょっと濃厚過ぎる気もしますが、優美な時間が流れます。もちろん強奏部の迫力は満点で、この曲の暗さの表現に抜かりはありません。第二楽章はカラヤンにしても恐ろしく耽美な演奏だと思います。これはかなりのお気に入り。交響曲全集のついで(?)に収録された《ロザムンデ》関係の音楽は、豪華で美しいけれどそれほど面白くなかったです。何故だろう?

*1:やろうともしなかったのかも知れないが。

ヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》


 70年代後半に録音された交響曲全集からの1枚である。《グレイト》は1977年6月10日〜12日、ベルリン・フィルハーモニーでのセッション収録となる。
 意外とテンポが速めの第一楽章序奏からスケール豊かな演奏で、黒光りするオーケストラが豪壮華麗に鳴り響く。レガート主体の奏楽であり、第一楽章の主部におけるジュリーニの例のテヌート全開ほどは強烈な印象は残らない(と言うよりも、奏法だけでアレ以上にギョッとさせる演奏はなかなか難しいだろう)ものの、流麗さを最優先にした解釈はなかなかに特徴的である。ただしカラヤンは、流麗なだけではなく、全体の流れを確保した上で、オーケストラの轟音を爆発させたり、ベルリン・フィルの優秀な木管群が見事な音色で花を開かせていくことを求める。よって迫力と魅力が横溢しており、見事という他ない。忘れがたいのは、カラヤンのフレーズ処理の見事さだ。古典派に比べて格段に長い旋律線を、カラヤンは見事に歌い抜いている。オーケストラへの意思浸透も相当なもので、楽器間のメロディーの受け渡しが時々ハッとするほどスムーズなのは特筆ものであろう。もちろん、コブシを利かせての情熱的な耽溺、という意味での《歌い抜き》ではないし、何か具体的な感情を歌に乗せているわけではないが、魅惑的なメロディーを全編に渡ってしっかり提示している。速いテンポで一気に駆け抜けるスケルツォ主部もオーケストラの技術力の高さと相俟って、圧倒的である。フィナーレはもはや何をかいわんや。この楽章の細かいモチーフをミニマリスティックな構造単位と捉えるか、小さなメロディーと捉えるかで演奏効果がだいぶ変わって来るが、カラヤンは後者の路線を採用している。ただしフレーズの息を長めにとっているので、遠大・壮大な音楽になっているのが面白い。弾みはしないが驀進する演奏で、一気呵成に聴かせるテンションの高さは特筆ものである。聴き手は、大変にエキサイティングな音楽体験ができると思います。
 交響曲全集としては、初期交響曲の大ぶりな表現が面白い。カラヤン一流の重厚壮麗なサウンドと表現で一貫しており、威力的なベルリン・フィルが堂々と鳴り響いている。奔流のように轟き渡る時もあって、豪快な局面すら登場、迫力満点である。というわけで、演奏が楽曲のスケールに明らかに合致していない――はずなのだが、これが意外とイケてしまうのが不思議なところだ。違和感がないわけではないのだが、何というか、こういうのもアリかも、と思ってしまうのである。よく考えるとここまでベルリン・フィルを重厚に鳴らすこと自体、結局カラヤン以外では誰もできなかった*1わけで、シューベルトの初期交響曲をこう解釈する指揮者なんか今後出て来ないだろうし、カラヤン以前にもまるでいなかったわけで、希少価値満点である。オーケストラが結構ノリノリなのも面白い。フレーズの息を長めにとっているので、シューベルトの旋律線自体をたっぷり味わうことができるのも良い。というか、カラヤンは壮麗な音響と同時に、フレージングをしっかり計算して息長く旋律を歌うこと――情緒に満ちた歌い方ではないが――を特徴とする指揮者である。前者はともかく後者はシューベルトの初期交響曲にもハマっており、それが本全集の不思議な説得力の源泉になっているのではないか。レガートが強いなあという箇所もあるけれど、決して下品にはなっていないのは偉とすべきでしょう。なお第6番のフィナーレはテンポ設定が目立って遅い。それがメロディーをより活かすことに繋がっていて、唸らされました。ここは「なるほど本来はこういう曲なのか」と呟きそうになったぐらいです。
 そして《未完成》、これはカラヤンの芸風と曲の持ち味がぴったり合っていて、ちょっと濃厚過ぎる気もしますが、優美な時間が流れます。もちろん強奏部の迫力は満点で、この曲の暗さの表現に抜かりはありません。第二楽章はカラヤンにしても恐ろしく耽美な演奏だと思います。これはかなりのお気に入り。交響曲全集のついで(?)に収録された《ロザムンデ》関係の音楽は、豪華で美しいけれどそれほど面白くなかったです。何故だろう?

*1:やろうともしなかったのかも知れないが。

エーリヒ・クライバー/ケルン放送交響楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

Amazon.co.jp: Erich Kleiber: Decca Recordings 1949-1955 : エーリヒ・クライバー: デジタルミュージック

 1953年11月23日、WDRフンクハウスの第1ホールでの収録である。たぶんライブ。会場の所在地はケルンということらしい。
 非常に素晴らしい演奏で、エーリヒ・クライバーがいかに名指揮者であったかをはっきり示している。第一楽章序奏からして引き締まった音楽になっているのがわかり、以降も概ね鋭い表現である。ただし旋律線が歌い込まれていないわけではなく、イタリア人指揮者顔負けのカンタービレを全篇で聴かせる。しかも元気溌剌なものから哀しげなもの、寂しげなものなど表情付けは様々に施されていて、それらが高いテンションでストレートにまとめ上げられていく。テンポがさほど速くないにもかかわらず、推進力が強いしリズムも前傾姿勢を保っているため、かなり快速の演奏に聞こえるのが面白い。一言で本演奏の特徴を表すとするなら、キレッキレ、といったところであろうか。モノラル録音なのでハーモニーの美感とその程度があまり伝わって来ないのは惜しいところだが、少なくとも、《指揮者の個性的解釈の助けをさほど借りずに、聴き手をエキサイトさせてくれる名演奏》という意味では、モノラル期を代表する録音の一つと言えるだろう。
 カップリングは、1956年1月7日の《フィデリオ》序曲、および《グレイト》と同日収録の《ヴォツェック》からの3つの断章である。前者は全曲演奏時のもので、後者ではソプラノ独唱をアンネリース・クッパーが務めている。少年合唱および子供は、少年合唱(Knabebchor)とのみクレジットされています。《フィデリオ》序曲は生命感に満ちたもので、聴いているだけで心が浮き立つ。それほどテンポは速くないし、リズムも取り立てて弾んでいるわけでもないのに、不思議なものである。《ヴォツェック》は言葉にできないほどの絶品。青白くてらてら怪しく光るような響きが、背筋がぞくぞくさせてくれます。「さすが初演者」などという通り一遍の言葉では済まされない、楽譜の読みとそれに関してのオーケストラへの伝達能力。エーリヒ・クライバーのとんでもなさは、この《ヴォツェック》だけでも十分すぎるほどわかる。クッパーの独唱も大変魅力的、少年の声も強烈で悲劇性を高めている。また伴奏もいいんだ……。

サイモン・ラトル/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

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 2005年6月8日〜11日にかけて、ベルリン・フィルハーモニーでのライブ録音。ラトルは首席指揮者として徹底的に仕事ができるというベルリン・フィルとの関係性をフル活用して、楽曲の細部に至るまでとてつもなくハードルの高いことをオーケストラに要求していると思う。それはもう鬼気迫るほどに。それこそが、世界に冠たるベルリン・フィルの監督を任された自らの責務だとすら思っているのかも知れない。音楽が自然に流れる感覚がバーミンガム時代に比べて薄れているのは、つまりそういうことなのだと考えたりします。まあそれが真実であるかどうかはわからないけれど。
 この《グレイト》も同様の演奏。序奏部からして表情付けがとんでもなく細かい上に、それを強靭なアンサンブルを駆使して確固たる音響として刻み付けて行く。特に強弱やマルカート/レガートの描き分けの緻密さは他に類例を見ない――少なくとも現時点で私は他に同様の例を見たことがない。これは凄い。ただしその副作用として、音楽が自然に流れて行く感興は薄くなっている。そこをマイナスと捉える人には、この演奏は駄演に聞こえるだろう。第一楽章基本テンポをやや遅めに設定して、最初から演奏の方向性が目立つようになっているので、この傾向は更に強まっていると思います。すなわち、拒絶反応を示す人は最初の楽章で聴くのを止めてしまうかもということです。双方にとってその方が幸福かも知れない。続く第二楽章も同傾向の演奏ですが、シリアスな表情が支配的となります。メロディアスな弱音部では割と侘しげな空気感を醸すなど、一筋縄では行かない所も随所で見せてくれます。リズムの刻みを結構目立たせている気を取られがちですが、主旋律がちゃんと湿り気を持って奏でられていて、さすがに変なことばっかりやりたいわけじゃないんだなとも思いました。鳴っている音もちゃんと美しいしね。第三楽章ですら、細かい描き分けは徹底的に行われている。トリオでは第二楽章同様にリズムを強調しつつ(寄せては返す波のようだ!)、主旋律は憂いを含んでおり、なかなか面白い雰囲気になっています。フィナーレもテンポがそれほど速くなく、細部の描き分けに拘り抜いている。元気の出る爽快な音楽としては捉えていないのが特徴で、時々とてつもなく不安感を煽るような表現を見せて、驚かされます。
 ピリオド楽派の影響はあまり感じませんでした。また、室内楽っぽい鳴りであまり重厚ではないとの評判も聞き及んではいましたけれど、個人的にはそうだとは全く思えませんでした。確かにカラヤン時代よろしくの低音が分厚いピラミッド型の音響バランスではないけれど、オーケストラは高音・中音・低音それぞれの域が大変分厚いし、録音が各楽器の音をクリアに拾ってはいるけれど、全体としては非常にシンフォニックな鳴り方だと考えます。
 蛇足ながら、ラトルがこれほどまでにベルリン・フィルの持てる力をほぼ全部使ってまで偏執的な表現を為しているのを聴くと、佐渡裕がこのオーケストラを振ってのショスタコーヴィチ交響曲第5番がいかに大らかだったかがわかります。少なくとも、ラトルと佐渡では音楽家としての方向性がまるっきり異質でしょう。どちらが正しいかは知りませんし知ろうとも思いませんが、私は人工的と謗られるリスクを負っても、これほど手の込んだことをやって、オーケストラも自分も追い込むラトルの方が好きかな。私がさらに歳を取ったら、意見を変えるかも知れません。

クラウス・テンシュテット/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

Klaus Tennstedt - The Great Recordings

Klaus Tennstedt - The Great Recordings

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 1983年4月、ベルリン・フィルハーモニーでのセッション録音。
 凄まじい演奏である。この曲が美感とこれほど無縁に鳴り渡るのは、かつてなかったのではないか。この点ではクナッパーツブッシュも勝てない。響きがとにかく重厚で、楽器の音がぶつかってハーモニーは濁り気味ですらある。金管が入って来る場面などは、音がささくれ立っております。更に、楽想がことごとく、のたうち回るように演奏されており、さらっと綺麗に流れる所は皆無だ。どす黒い情感も満載で、表情はシリアス一点張り。一部の場面でシリアスな雰囲気になる演奏は多いけれど、全編にわたってこれほど徹底する演奏も珍しく、通常この曲から感じられる晴れやかな気分は薬にしたくもない。しかも一々粘り気が強いのである。第二楽章の雰囲気なんか実に異様で、リズムを重く引きずるように演奏しており、まるで死地に赴く軍隊の行進のように悲壮に響く。フルトヴェングラーの戦時ライブですらまだもうちょっと余裕というか、明るさがあった。テンシュテットの目には、光や希望は見えていないようである。
 というわけで、スケルツォなんかもうほとんど初期マーラーの世界に足を踏み入れてます。フィナーレは大爆発してますが、爆発しているのは喜びや生命感ではなく、もっと違う別の名状しがたい何かでした。スケールは極大、テンションは第一楽章序奏から高ぶったままで、強い苦悩が全篇を覆っている。速いテンポの楽章では、卑近なたとえで恐縮だけれど、ビオランテ第二形態が突進かまして来るような感覚に襲われます。
 こういう解釈は強烈に過ぎ、正解だとは全く思わないけれど、尋常ではない情熱をぶつけている分、説得力が強く、希少価値もあって実に面白い。もうホント、オーケストラの鳴り方からして他の演奏と違います。テンシュテットの個性を刻印した唯一無二の演奏として珍重したい。しかしセッション録音でこれか。ライブだったら一体どうなってしまうのだろうか。

レナード・バーンスタイン/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

 1987年10月、コンセルトヘボウでのライブ録音。
 解釈の基本はニューヨーク・フィルとの旧盤とそう変わりがない。すなわち快活でよく歌い、よく鳴る。聴いていると元気になる一方、憂いの表情が無視されているわけではない。表情付けは全くしつこくない(この時期のバーンスタインでこれは珍しい!)けれど、寂しそうな表現はちゃんと為されているのが嬉しい。印象的なのは、新盤の方がより美しい演奏になっていることである。ニューヨーク盤は、勢いに身を任せるところ無きにしも非ずで、その結果、音楽が荒々しくなっている場面もあった(それはそれで魅力になっていた)が、この新盤は細部がより丁寧に練られている。よってどんな場面でも美しい。前へ前とくいくい進んでいくスマートな流れの中にも、注意深いバランス調整や丹念なハーモニー形成があって、好感度は非常に高い。バーンスタインの音楽は間違いなく深化しているのである。反面、ニューヨークに比べてテンションは若干低くなっており、勢いや力感もやや弱い。ただし音楽する喜び、これは全く負けていない印象である。みんな楽しそうに弾いているんだよなあ……。
 オーケストラの性格ゆえだろうけれど、響きが高貴なのも特徴だ。これが爽やかな印象を一層強めている。バーンスタインも、主導権を握るのではなく、一緒に爽快に音楽することを最優先している気配がある。よく聞くと細かい拘りはそこここに見て取れるのだが、全体の中ではあまり目立っていない。この録音を聴いて、指揮者が強引だと思う人はまずいないだろう。バーンスタインの晩年によく見られた粘り気もここではほとんど感じられない。少なくともこの曲に関して、バーンスタインは最後まで青年のように若々しかったということなのだろうか。
 ドイツ・グラモフォンによる録音も素晴らしい。各パートの動きをクリアに伝えつつ、響き全体の美しさもしっかり聴かせてくれる。これはなかなかいい音盤ですよ。

ズービン・メータ/イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

 このコンビは1970年代に交響曲全集をセッション収録しているが、私が聴いたのはそれとは違い、2006年11月、テル・アヴィヴのマン・オーディトリアムでのライブ録音である。
 大変豊麗な演奏である。弦の音が素晴らしくふくよかであり、木管はその中でソリッドな芯または核のように響いている。金管はその背景でサウンドに色を添えるように鳴っている。イスラエル・フィルのこの音を基礎として、メータはゆったり構えて、角の取れたまろやかな解釈を聴かせる。音楽は自然に運び、とても温かで寛いだ雰囲気が全篇に流れている。その特徴は、第一楽章の序奏部が実にあっさりと流れて行くことからも明らかに見て取れる。主部に入っても雰囲気が激変することはなく、第二楽章は暗い表情が強調されることはなく、第三楽章がスケルツォというよりはメヌエットのような長閑な時間が流れており、主部とトリオの雰囲気とテンションは一定に保たれている。フィナーレでもちょこまかとした音の動きを強調されることはなく、盛り上がりはするがそれはあくまで鷹揚に為される。楽曲構造/各主題特性/細部の表情付け/決め所/楽想が表す感情/音響構造/演奏にかける情熱、こういったものを聴き手にはっきり提示する演奏ではなく、良い見通しと包容力に裏打ちされた、ゆるキャラ的な和やかさに満ちた演奏だと思います。
 ただし無為無策というわけでは全くない。注意深く聴くと、細部でやるべきこと/やりたいことを、オーケストラにしっかり守らせてるんですよね。しかもそれが結構細かくて(特に弦! これ、ボウイングやパート・バランスに滅茶苦茶拘っているんじゃないか)、メータなりの拘りと、作曲家/作品に対する敬意と真摯な姿勢を感じます。そして「ゆるキャラ」と言っても、鳴っている音が技術的に緩いわけでもなくて、むしろメカニカル面はほぼ万全。これがライブというのは凄いことです。にもかかわらず、それらが印象の表面には浮かんで来ず、隠し味として機能する。この点では不思議な演奏だと思いますが、ゆったりまったり自然な流れを豊麗に示すという、スノッブの皆さんにはフルボッコにされかねない簡単そうなやり方も、実は相当な難事だということなのかも知れません。
 メータとイスラエル・フィルの《グレイト》は、「この曲はこれこれこういう曲だ! そしてこの箇所はこう演奏されなければならない! それをやってない演奏は糞だ! ムキョーッ!」という、拘りがあるタイプの聴き手には全く受けない演奏ではあると思います。そして正直、そういう聴き手はクラヲタにおいては多数派なんじゃないかと思わないでもない。しかし、そういう拘りを一旦脇に置いて、メータとイスラエル・フィルが提供するふくよかで自然体な時間は、本当に魅力的です。メータは自分の楽曲への拘りを聴き手に伝えること自体に、興味がないんだと思います。何から何まで豊満で、何から何まで流麗、そして何から何まで和やか。ポイントは「豊満」ということなのだと思います。これがなかった場合、恐らく演奏は侘び寂びを思わせるものになって、クラヲタにも人気が出そうです。しかし「豊か」という概念が付加された時点で、音楽に限らず、文化上の事物の場合は途端にマニアからの受けが悪くなる。命賭けてる/身体張ってる感じが薄まるからでしょうか。個人的には、命を賭けて何かを為すことは素晴らしいことだとは思うけれど、作品で一々そういうの噴出させなくても良いのではと感じてます。命を賭けている感じがあろうがなかろうが、本当に命を賭けて作っているかはその人本人にしかわからないわけですし。
 カップリングはモーツァルトの《プラハ》。こちらは2010年2月のライブ録音で、演奏の方向性は《グレイト》と全く同じ。幸福な時間が流れる、意外と手が込みつつ表面的には鷹揚に構えているように聞こえる、良い演奏です。

ピエール・モントゥー/ボストン交響楽団 シューベルト:交響曲第8(9)番ハ長調《グレイト》

Grands Interpretes

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 1956年9月9日、モスクワでのライブ録音。つまりアメリカを代表するオーケストラの一つ、ボストン交響楽団ソ連訪問中の演奏である。会場は恐らくはモスクワ音楽院。この時期のソ連訪問がどのような意味を持ち、演奏者がどのような心持ちでそれに臨んだか、想像に難くはないが如何せんどこまで行っても想像なので、そういう側面は無視して感想をしたためることにします。なお現在のところ、モントゥーのこの曲の録音は、これが唯一らしい。録音状態が万全と言えないのは残念だが、まあしょうがないです。
 リピートはおこなっておらず、テンポも速め。スケルツォなどは9分20秒弱で終わってしまう。実に活き活きした演奏で、テンポやリズムをかなり頻繁に変化(ただし極端な変化ではない)させて、目まぐるしく表情付けを変えるモントゥーの芸風が遺憾なく発揮されている。「流す」場面はほぼ皆無で、どの楽章のどの場面でも何らかの濃い目の味付けが施されているのだ。第一楽章のコーダなどはフルトヴェングラー張りの加速を見せた上で、序奏主題回帰もそのまま突っ走るなど、パッショネートなところも見せる。この部分に限らず、全体的に熱気が強いのも特徴だと思う。聴き手は高エネルギー反応を随所で感知することができるはずだ。
 モチーフの繰り返しこそこの交響曲の本質、と思っている人にとって、モントゥーの頻繁なテンポ操作・リズム操作は果たしてどうなのか、とも思うが、フルトヴェングラーの真剣深刻なドラマ作りとはまた違った、活き活きした演奏にしたいがゆえの加減速多用は、他にあまり例がないこともあって非常に面白い。ボストン交響楽団も上手く、モントゥーの指示にしっかり対応している。出しているサウンドも非常に力強い。演奏終了時の拍手が結構凄いのは、やっぱりエキサイティングな演奏だったということなんでしょう。
 カップリングは、ニューヨーク・フィルを振った1944年11月5日ライブのドビュッシー:祭り(夜想曲より)である。何の脈略もないカップリングではあるが、こちらも活き活きしていて楽しい演奏だ。音はちょっと古いですがまあしゃあない。シューベルト同様、ドビュッシーでもテンポやリズムをちょこまか変えていて、本当に細かい操作が好きな指揮者だったんだなと痛感いたしました。