不壊の槍は折られましたが、何か?

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サイモン・ラトル/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

amzn.to

 2005年6月8日〜11日にかけて、ベルリン・フィルハーモニーでのライブ録音。ラトルは首席指揮者として徹底的に仕事ができるというベルリン・フィルとの関係性をフル活用して、楽曲の細部に至るまでとてつもなくハードルの高いことをオーケストラに要求していると思う。それはもう鬼気迫るほどに。それこそが、世界に冠たるベルリン・フィルの監督を任された自らの責務だとすら思っているのかも知れない。音楽が自然に流れる感覚がバーミンガム時代に比べて薄れているのは、つまりそういうことなのだと考えたりします。まあそれが真実であるかどうかはわからないけれど。
 この《グレイト》も同様の演奏。序奏部からして表情付けがとんでもなく細かい上に、それを強靭なアンサンブルを駆使して確固たる音響として刻み付けて行く。特に強弱やマルカート/レガートの描き分けの緻密さは他に類例を見ない――少なくとも現時点で私は他に同様の例を見たことがない。これは凄い。ただしその副作用として、音楽が自然に流れて行く感興は薄くなっている。そこをマイナスと捉える人には、この演奏は駄演に聞こえるだろう。第一楽章基本テンポをやや遅めに設定して、最初から演奏の方向性が目立つようになっているので、この傾向は更に強まっていると思います。すなわち、拒絶反応を示す人は最初の楽章で聴くのを止めてしまうかもということです。双方にとってその方が幸福かも知れない。続く第二楽章も同傾向の演奏ですが、シリアスな表情が支配的となります。メロディアスな弱音部では割と侘しげな空気感を醸すなど、一筋縄では行かない所も随所で見せてくれます。リズムの刻みを結構目立たせている気を取られがちですが、主旋律がちゃんと湿り気を持って奏でられていて、さすがに変なことばっかりやりたいわけじゃないんだなとも思いました。鳴っている音もちゃんと美しいしね。第三楽章ですら、細かい描き分けは徹底的に行われている。トリオでは第二楽章同様にリズムを強調しつつ(寄せては返す波のようだ!)、主旋律は憂いを含んでおり、なかなか面白い雰囲気になっています。フィナーレもテンポがそれほど速くなく、細部の描き分けに拘り抜いている。元気の出る爽快な音楽としては捉えていないのが特徴で、時々とてつもなく不安感を煽るような表現を見せて、驚かされます。
 ピリオド楽派の影響はあまり感じませんでした。また、室内楽っぽい鳴りであまり重厚ではないとの評判も聞き及んではいましたけれど、個人的にはそうだとは全く思えませんでした。確かにカラヤン時代よろしくの低音が分厚いピラミッド型の音響バランスではないけれど、オーケストラは高音・中音・低音それぞれの域が大変分厚いし、録音が各楽器の音をクリアに拾ってはいるけれど、全体としては非常にシンフォニックな鳴り方だと考えます。
 蛇足ながら、ラトルがこれほどまでにベルリン・フィルの持てる力をほぼ全部使ってまで偏執的な表現を為しているのを聴くと、佐渡裕がこのオーケストラを振ってのショスタコーヴィチ交響曲第5番がいかに大らかだったかがわかります。少なくとも、ラトルと佐渡では音楽家としての方向性がまるっきり異質でしょう。どちらが正しいかは知りませんし知ろうとも思いませんが、私は人工的と謗られるリスクを負っても、これほど手の込んだことをやって、オーケストラも自分も追い込むラトルの方が好きかな。私がさらに歳を取ったら、意見を変えるかも知れません。