不壊の槍は折られましたが、何か?

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ズービン・メータ/イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

 このコンビは1970年代に交響曲全集をセッション収録しているが、私が聴いたのはそれとは違い、2006年11月、テル・アヴィヴのマン・オーディトリアムでのライブ録音である。
 大変豊麗な演奏である。弦の音が素晴らしくふくよかであり、木管はその中でソリッドな芯または核のように響いている。金管はその背景でサウンドに色を添えるように鳴っている。イスラエル・フィルのこの音を基礎として、メータはゆったり構えて、角の取れたまろやかな解釈を聴かせる。音楽は自然に運び、とても温かで寛いだ雰囲気が全篇に流れている。その特徴は、第一楽章の序奏部が実にあっさりと流れて行くことからも明らかに見て取れる。主部に入っても雰囲気が激変することはなく、第二楽章は暗い表情が強調されることはなく、第三楽章がスケルツォというよりはメヌエットのような長閑な時間が流れており、主部とトリオの雰囲気とテンションは一定に保たれている。フィナーレでもちょこまかとした音の動きを強調されることはなく、盛り上がりはするがそれはあくまで鷹揚に為される。楽曲構造/各主題特性/細部の表情付け/決め所/楽想が表す感情/音響構造/演奏にかける情熱、こういったものを聴き手にはっきり提示する演奏ではなく、良い見通しと包容力に裏打ちされた、ゆるキャラ的な和やかさに満ちた演奏だと思います。
 ただし無為無策というわけでは全くない。注意深く聴くと、細部でやるべきこと/やりたいことを、オーケストラにしっかり守らせてるんですよね。しかもそれが結構細かくて(特に弦! これ、ボウイングやパート・バランスに滅茶苦茶拘っているんじゃないか)、メータなりの拘りと、作曲家/作品に対する敬意と真摯な姿勢を感じます。そして「ゆるキャラ」と言っても、鳴っている音が技術的に緩いわけでもなくて、むしろメカニカル面はほぼ万全。これがライブというのは凄いことです。にもかかわらず、それらが印象の表面には浮かんで来ず、隠し味として機能する。この点では不思議な演奏だと思いますが、ゆったりまったり自然な流れを豊麗に示すという、スノッブの皆さんにはフルボッコにされかねない簡単そうなやり方も、実は相当な難事だということなのかも知れません。
 メータとイスラエル・フィルの《グレイト》は、「この曲はこれこれこういう曲だ! そしてこの箇所はこう演奏されなければならない! それをやってない演奏は糞だ! ムキョーッ!」という、拘りがあるタイプの聴き手には全く受けない演奏ではあると思います。そして正直、そういう聴き手はクラヲタにおいては多数派なんじゃないかと思わないでもない。しかし、そういう拘りを一旦脇に置いて、メータとイスラエル・フィルが提供するふくよかで自然体な時間は、本当に魅力的です。メータは自分の楽曲への拘りを聴き手に伝えること自体に、興味がないんだと思います。何から何まで豊満で、何から何まで流麗、そして何から何まで和やか。ポイントは「豊満」ということなのだと思います。これがなかった場合、恐らく演奏は侘び寂びを思わせるものになって、クラヲタにも人気が出そうです。しかし「豊か」という概念が付加された時点で、音楽に限らず、文化上の事物の場合は途端にマニアからの受けが悪くなる。命賭けてる/身体張ってる感じが薄まるからでしょうか。個人的には、命を賭けて何かを為すことは素晴らしいことだとは思うけれど、作品で一々そういうの噴出させなくても良いのではと感じてます。命を賭けている感じがあろうがなかろうが、本当に命を賭けて作っているかはその人本人にしかわからないわけですし。
 カップリングはモーツァルトの《プラハ》。こちらは2010年2月のライブ録音で、演奏の方向性は《グレイト》と全く同じ。幸福な時間が流れる、意外と手が込みつつ表面的には鷹揚に構えているように聞こえる、良い演奏です。