不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

クリスティアン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル

サントリーホール 18時〜

  1. ショパンノクターン第5番嬰ヘ長調Op.15-2
  2. ショパン:ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調Op.35《葬送行進曲付》
  3. ショパンスケルツォ第2番変ロ短調Op.31
  4. ショパン:ピアノ・ソナタ第3番ロ短調Op.58
  5. ショパン舟歌嬰ヘ長調Op.60

 熟考され、熟成された究極のショパンを堪能した。ややくぐもった柔らかい音色で、それでいて力強いタッチにより、壮麗かつ濃やかな音の伽藍が立ち上げられていく。ショパンという作曲家は、むやみにロマンティックな需要のされ方をしているが、本人はサロンの雰囲気を盛り上げたり、具体的な「文字にできるストーリー」に付曲していたわけではない。彼は終生、絶対音楽的でロジカルなスタンスを堅持していた(さもなくば、第2番ソナタのフィナーレがああはならないはずである)。
 当夜のツィメルマンは、そのことを強く意識させる曲作りであった。むろん、必要十分なロマンはあって、俗に言う「うっとり」成分はふんだんに含まれている。しかしそれは、専ら先述のタッチによって達成されており、ルバートやリズムなど、緊密で堅牢な構成感を崩すおそれのある要素は注意深く排除されている。興に乗って弾き飛ばす、あるいは節回しに耽溺することは決してない。ツィメルマンは予め考え抜かれた解釈を、丹念に実際の音にしていく。強烈な熱気と、冷徹な思考の奇跡的な同居。知情意のバランスがとれた、素晴らしい演奏であったと思う。そしてそれは、フレデリック・ショパン本人が望んだ「需要のされ方」であったはずだ。少なくとも聴いている最中、私は、これ以上のものがあるだろうかとの気分にさせられた。今年度前半のベスト・コンサート候補か。
 以下、私事を若干。くしくも同日同時刻、都内某所では、今年1月に急逝された書評家・南波雅氏を偲ぶ会がおこなわれていた。その時間帯にかき鳴らされた《葬送行進曲》に、私は思わず故人を重ね合わせていた。かの楽章は、葬送行進曲パートの後に、楽しかった頃を遠く思い出すようなパートが挟まり、そして再び葬送行進曲が前にも増して激情に駆られて浮かび上がる。そこで万感胸に迫ったことを、(ショパンの意志にはそぐわないかも知れないが)ここに告白しておきたい。そしてその第3楽章からアタッカで入ったフィナーレが、これまたとてつもない説得力を持っていた。ややもするとユニゾンの羅列にしか聞こえないこの楽章が、強い感情表現に聴こえたのである――すなわち、残された者の激白に。このような「物語」を音楽から読み取るのは、結局のところ曲解に過ぎない。本来書くべきではないが、今日だけはそれをお許し願いたい。ただ、説得力が強かったのは事実であり、この一事をとっても、ツィメルマンの演奏がいかに非凡だったかの証明となるだろうとは思う。
 アンコールはなし。本プログラムに全力を尽くしたということなのだろう。この潔さは、見習われるべきだと思う。