不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

カンタベリー物語 郷士の物語/チョーサー

郷士の物語の序

郷士は、古のブルターニュの詩歌を披露すると言う。ただし、額がないので言葉が野卑だし修辞もちゃんとしていないと断る。百年戦争の最中の当時のイングランドにおいて、フランスは今以上に心理的距離が近く、人の往来もカジュアルに行われていたのだろうか。

郷士の物語ここに始まる。

ブルターニュと呼ばれるアルモニカの国にいた一人の騎士、カイルドのアルヴェラーグスは、ドリゲンに恋をし、ドリゲンもそれを受け容れ、結婚した。1年以上新婚生活を謳歌した二人だったが、次の1~2年間、アルヴェラーグスはブリテンに出かけてそこに留まった。ドリゲンは悲しみに沈むが、夫からやっと、そろそろ帰るとの報せを受ける。彼女の友人たちは、気晴らしに、ドリゲンを海の近くへ散歩へ連れ出す。しかしドリゲンは、船を見ては夫が乗った船ではないと嘆き、海から顔を出す岩を見て、船を壊す岩があるのは恐ろしいと泣いて、神に祈る。夫がそろそろ帰って来るというのに、心配性が過ぎるのでは? 情緒不安定になってない? 大丈夫?

さて近習の一人アウレリウスは、この美しい人妻ドリゲンに惚れてしまっていた。胸の内を彼女に打ち明けはしないまま悶々と過ごし、ある日、とうとう告白してしまう。ドリゲンは冷静ににべもなく断るが、戯れで、「海の岩を全部取り除いたなら愛する」と全てにおいて誓ってしまう。断りが本当ににべもないので、戯れの誓約が続いて私はびっくりしました。これはいけない。

とはいえ、海の岩(岩というよりも岩山に近いはず。それが何キロも何個もある)を全て取り除くなど人間には不可能であり、アウレリウスは慈悲なないのかと言う。ドリゲンこれに答えて曰く「ありませんとも」。そして自分のことは忘れろ、それにしても人妻に恋するなんて何か楽しいのかとさえ言う。こんなに取り付く島がないのに、どうして誓いを立てたりなんかしたの? 馬鹿にして煽ったんですか? これは物語の中でしっぺ返しが来るな。とはいえその時その場にいるアウレリウスは、この無理ゲーを言い渡されて絶望し、かなり長く愁嘆する。太陽神フィーバス(=アポロン*1に、妹神ルシナに頼んで2年間ずっと大潮を起こし、水位が岩を5尋は超えるようにしてくれ、さもなくば岩をプルートーの国へ沈めてくれと願い始める。だがこれはデウス・エクス・マキナの呼び声ではなく、無理なことを言われて失恋が確定したことへの嘆きである。ひとくさり嘆いた後、アウレリウスは失神する。彼は兄によって抱えられ、家に戻された。

アルヴェラーグスはブリテンで名誉を受けた上で無事帰国し、妻ドリゲンと再び幸せに暮らし始めた。一方、アウレリウスは寝込んでしまう。憐れに思った兄は、ふと、オルレアン*2にいた頃、ある書庫で自然魔術の書物を見たことを思い出した。法学を学んでいた彼の友人が、隠していたのだ。占星術・星座に関連するその魔術書を用いたら何とかなるのではないか。そう思い、アウレリウスを誘って兄はオルレアンに行く。アウレリウスは寝込んでいたはずだが、望みが見えるとすぐ元気になっている。

さてオルレアンに近付いた頃、一人の若い学者と彼らは行き合う。この若者は兄弟が来た理由を知っていると思わせぶりなことを言う。兄弟は彼に付いて行き、道中で兄はすっかり思っていることを話す。そして、オルレアンの兄は、自分の昔の仲間のことを訊く。すると、仲間は皆亡くなったことを教えられ、兄は涙する。本筋外でさらっとしんみりエピソードを入れるな。

ともあれ、この魔術師の家に兄弟は着く。家は立派でとても寛げた。そして兄弟は、野鹿が沢山いる庭園を見る。今まで見た中で最も立派な牡鹿が百頭も猟犬に殺され、鷹匠たちが鷹狩をし、騎士たちが馬上槍試合を行って、ドリゲンが踊る。日本ならこの時点で狐か狸に化かされているなと思うところだが、ここはヨーロッパである。魔術師が両手を叩くと、これらは幻のように消え去った。三人は、ただ立派な書斎で座っていただけだったのである。魔術師は召使に夕食を準備させた。夕食後、三人はジロンド川からセーヌの河口まで*3の岩を全て取り払う魔術の報酬の話に入る。魔術師は千ポンドを要求する。アウレリウスはあっさり快諾、必ず払うと約束する。ただし早くしてと注文を付けた。魔術師もこれに応じた。翌朝三人はブルターニュに向けて出発した。そして現地到着後、アウレリウスの恋を憐れに思った魔術師は、頑張って占星術的に良いタイミングを計り。遂に魔術を実行する。一、二週間は岩はすっかり取り除かれたように見えた。

アウレリウスは魔術師に礼を言い、ドリゲンの元に行って、自分の苦しい胸の内をコメントした後、誓いに触れ、岩を除いたので見ておいてくださいと伝えて、帰って行った。岩が見えないことを確認したドリゲンはショックを受けて、二日間を嘆きのうちに過ごした。ここから彼女の長めの愁嘆が始まる。名誉が守れないなら死んだ方がマシだ、という趣旨であり、名誉を優先して命を落とした女性の逸話を何個も取り上げる。さて三日目、留守にしていたアルヴェラーグスが帰宅してくる。ドリゲンの様子を見た彼は、妻に事情を尋ねて、妻も包み隠さず答えた。アルヴェラーグスは、ドリゲンが約束を守らなければならないと言い、召使に、ドリゲンをアウレリウスの元*4へ連れて行かせる。ドリゲンは死ぬつもりだったような感触を受けるが、夫が帰って来てこの手の物語には珍しく夫婦間の報連相が機能して、夫と妻の状況認識が完全に一致する。そしてその上で、夫は妻が思い描いていたものとは異なる方向の指示を出すのだ。この方向転換はなかなか面白い。妻には生きていてもらいたかったのかな。ドリゲンとアウレリウスの逢瀬が秘密裏に行われるよう腐心している点からも、アルヴェラースグは未来を見ている。ただし、約束は果たされなければならないということだ。

ここからがこの物語の本番である。ドリゲンは、アウレリウスに誓いを果たすと言うが、どう見ても様子が尋常ではない。アウレリウスは事情を説明してもらい、約束を果たそうとしてくれている彼女とアルヴェラーグスに強い同情を覚えた。そして、あらゆる契約を捨てると誓った。つまりドリゲンはアウレリウスへの恋を諦めたのである。ドリゲンは膝をついて彼に感謝し、夫の元に戻る。アルヴェラーグスも非常に喜んだ。かくしてこの夫婦は生涯幸せに暮らした。

一方、ドリゲンのことは諦めつつも、魔術師への千ポンドの債務があるアウレリウスは、破産したと嘆くも約束は守らねばならないと魔術師の元(まだアルモニカに滞在中である)へ有り金を持って行く。そして、残りの負債を払うには財産を処分しなければならないので、支払いを二、三年待ってくれと頼む。魔術師はいぶかしんで事情を確認し、アウレリウスが想い人を得なかったことを知る。魔術師はアルヴェラースグもアウレリウスも高貴に振舞ったと褒め、自分も高貴な行いをしないと恥だと、アウレリウスの千ポンドの負債を放免するのだった。

郷士は、誰が一番寛容であったかと聞き手に問うて、話を締めくくる。

郷士は序で話が無駄に長かったので、本編も贅肉が多いのかと思ったが意外とそうでもなかった。話の内容もなかなか面白かった。惚れる相手は選べないので、それが人妻になってしまうこともあろう。約束は普通は果たすものである(不可抗力で履行不能になってしまったら別だが、今回はそれに該当しない)。ということで、アウレリウス。アルヴェラーグスには同情したい。ドリゲンも、調子に乗ったなあとは思うが、心千々に乱れたろうし、これ以上責めるのは酷。それに悪人/性悪には程遠い。魔術師は特に義理もないのに債務免除を自主的に行っており、立派で高貴な人な気はするが、行動原理がいまいちよくわからない。

*1:本文中では主にフィーバスと呼ばれているが、たまにアポロンも出て来る。14世紀の人においても、フィーバスとアポロンが同一神であることは認識されていたようだ。

*2:オルレアンと言えば、オルレアンの少女ジャンヌ・ダルクだが、彼女が『カンタベリー物語』が書かれた頃、どころか作者チョーサーが死んだ時点でもまだ生まれてすらいない。この文章が書かれた際、オルレアンの名はジャンヌ・ダルクとは一切、全く、何の関係もないのである。ジャンヌ・ダルクという言葉は、チョーサーにとってはスマホという言葉と等価で、意味が取れない。これが時代が違うというやつである。

*3:フランスの西海岸線の過半を軽く超えます。ドリゲンの要求に範囲指定はなかったはず。

*4:正確には庭園に向かわせるが、なぜそうなのか説明すると長くなるので割愛。アダムとイブが住んでいた庭園になぞられたのかなと思わないではない。