不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

火星の砂/アーサー・C・クラーク

火星の砂 (ハヤカワ文庫 SF 301)

火星の砂 (ハヤカワ文庫 SF 301)

 SF作家マーティン・ギブスンは、地球を火星を結ぶ初の旅客船に乗り込んで、火星を目指す。宇宙を舞台とした傑作SFを数多くものしてきたギブスンであったが、見ると聞くでは大違い。戸惑いながらも楽しむうちに、彼は傍らに、自らの過去に大いに関係する人物がいることに気付く。そして火星到着後、ある歴史的な出来事を目撃することになるのだった……。
 本国での発表から53年もの時間が過ぎ去り、一部描写は科学的に正しくないことが判明している。にもかかわらず、宇宙船や火星の描写は細部に至るまで迫真的であり、文系人間が独力でそれに気付くことは難しい。お得意の「壮大」としか言いようのない情景も用意されており、これも含め、読者の眼前で展開されるシークエンスのリアリティは、さすがクラークとしか言いようがない。さすがと言えば、火星を第二の故郷とする人々が凛々しく描かれているのも素晴らしい。パイオニア精神に溢れた人々はあくまで前向きに、しかしあくまで理知的に*1物事に望む。これぞまさにクラーク。ファンは必読であろう。
 読むに当たって注意すべきは、前半部分が「地球から火星に向かう」だけの話であることだ。主人公のギブスンは宇宙に関する素人として登場する。彼の目には船の中の何もかもが新鮮に映るが、これが全ての読者の興味を惹くとは思えない。新型の乗り物に初めて乗った際、興味からキョロキョロしてしまう人ならば大丈夫だろうが、そうでなければ舞台が船内に限定される前半は若干退屈だろう。またギブスンの当初の挙動は、言葉は悪いしニュアンスも少々異なるが、東京駅に着き立てのおのぼりさんに似ており、これだけでちょっとうざく感じる人が出て来てもおかしくない。おまけにギブスンが文筆業者なので、「何だただの取材小説か」という誤解を最初の100ページ強で受けるリスクが否定できないのである。しかしここで力強く断言しておきたいのは、火星に着いた後は全然違う話になるということである。物語の様相も、ギブスンの人生も、火星で大きく変わるのである。途中で投げずに、この変化と、その先に開けている地平を見てから、『火星の砂』を評価して欲しい。

*1:人類や科学を肯定的に捉えるのは一緒ながら、ハインラインとはここが決定的に異なるのである。