不壊の槍は折られましたが、何か?

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ジョン・エリオット・ガーディナー/リヨン歌劇場管弦楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

 1986年7月、ジャック・コール宮でのライブ録音。
 ウィーン・フィルを指揮した音盤では、古楽奏法がそれほど目立っていなかったが、こちらは同じ現代楽器のオーケストラながら(録音時点の)手兵ということもあって、ピリオド楽派的側面がより徹底されている。スケルツォ古楽メヌエット(あるいは他の舞曲)のように聞こえるし、どんな総奏も分解能がはっきりしている点はなかなか面白い。ただしガーディナー自身がそれほど古楽奏法をおもしろおかしく強調するタイプではないため、ノリントンアーノンクールインマゼールのような尖った演奏を期待すると肩透かしを食らうだろう。代わりにガーディナーには、ストレートでフレッシュな息吹がある。それはこの四半世紀以上前の録音にもしっかり刻み込まれている。
 ここで聴かれるオーケストラのサウンドは、ビブラートが弱く、ピッチも低めと、ピリオド様式で統一されている。しかしそれ以外は、全くもってストレートな演奏だ。テンポは速めで、やや小ぶりな鳴り方ながらサウンドがよく整理されており、全体的に爽やかに進んでいく。聴いていて心地よいし、軽やかな足取りは小気味よさすら感じさせる。しみじみしとした味わいや、腰の入った力感は弱い。というか音がふわふわしていて、しなやかさすらあまり感じさせないのだが、そういうのはガーディナーも最初から目指していないだろうな。この小気味よさは癖になる。ロマン派のロマンティックな音楽としての性格は剥ぎ取られており、古典派を通り越して、快活でバロック音楽のような感興が支配的である。シンプルな、非常にいい演奏だと思います。
 発売当初、この録音の評判は芳しくなかったらしい。音盤の単価が高く、オタクであってもベスト盤を決め込むことに経済的意味があった時代において、ワルターフルトヴェングラーベームブロムシュテットレヴァイン辺りの録音を定番扱いしてそればかりに慣れ親しんでいた当時の音楽ファンには、この演奏は軽過ぎたということなのだろうと私は勝手に推測している。ビブラートの薄い音が貧相に聞こえたのかも知れない。古楽奏法を古典派以降に持ち込むことが流行り始めていたがまだ普遍化まではしていなかった当時において、ガーディナーらを否定することは《流行を否定する俺カッコいい》に繋がったということだと考えている。この言い方が悪意に過ぎるというなら、こう言い換えよう。所詮「あいつら」のものでしかない古楽奏法を、「ぼくらの」曲において「ぼくらの」現代楽器オケが採り入れるなんて許しがたかった――そういう態度を取る人が多かったということなのではないだろうか。しかし今やそういう思い込みから自由になった聴き手は増えた。さらに音盤が安くなっって買い求めやすくなった以上、《グレイト》クラスのメジャー曲においてベスト盤を決めてそれで楽曲イメージを固定してしまうのは、あまりにも勿体ない。そんな今こそ、ロマン派への古楽奏法適用の最初期の試みであるこの演奏の完成度の高さは、再評価されるべきである。
 で、そういう話とは別のところで、ふと気が付いたことがある。この音盤に到達するまで私はこのブログで54種類の録音を聴いて来たわけだが、このガーディナー&リヨン歌劇場管で、初めてフランスのオーケストラによる録音を聴けたことになる。独墺系の音楽で、フランスのオーケストラはまるで録音に使われないのである。演奏してないってわけじゃないだろうにね。この録音には古楽奏法というエポック(あくまで当時においてはである)があるが、それがもしなければ、この録音が為されたかは正直怪しい。そもそも独墺系に限らず、フランス系以外の音楽では、フランスのオーケストラって録音ではなかなか採用されない。先述の通り、一曲につき一つのベスト盤を争う時代ではもうなくなっているので、フランスのオーケストラによる様々な国の音楽を録音してくれてもいいじゃないかと考える。
 カップリングは1987年7月モンペリエ歌劇場でのセッション録音による《未完成》である。こちらも古楽奏法が適用されているが、旋律の浮遊感ある歌い方が実に魅力的だ。こういう歌い方は、古楽奏法の方がやりやすいと思います。
 ところでガーディナーは、オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティークシューベルトを再録音してくれないのだろうか? 二種類ある《グレイト》がどちらもモダン楽器オケとのものってのは、ピリオド楽派の雄としてはちょっと寂しい気がしますので。というかガーディナー、来日してくれないかなあ……。