不壊の槍は折られましたが、何か?

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朝比奈隆/東京都交響楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

 1995年1月22日、東京芸術劇場でのライブ録音。ということはすなわち、阪神・淡路大震災の5日後の演奏である。当日は前半が《未完成》であり、そちらも別のCDで発売されている。ついでなのでそちらも聴いてみた後、この感想をしたためている。
 朝比奈隆は同震災の被災者でもあり、交通が寸断された神戸・六甲の自宅から9時間かけて大阪に移動、その翌日にこの演奏会のために東京に移動し、22日の演奏会開催にこぎつけたという。これは《物語》の格好のネタとなる。また、震災は演奏日時点でもまだ大きなニュースとして現在進行形で被災地の状況が報道されていただけに、指揮者やオーケストラにも何らかの感慨はあったかもしれない。これらが演奏に影響したのかどうか、前半の《未完成》は大変に重い足取りで粛然と演奏されており、まるで鎮魂曲のようにすら聞こえる。《未完成》の、本来は浮遊している暗めの調べは、しっかりと着地させられており、異様な演奏ではあるが、全体としてグッと来るのも確かだ。こういう《未完成》は、ありそうで意外となく、実は貴重なのではないかと考える。
 さて後半の《グレイト》である。リピートを律儀に実行し、演奏時間はほぼ1時間と大変なことになっているが、演奏自体はなかなか素晴らしく、また朝比奈隆の音楽について考えさせられる興味深い内容になっている。ここで彼は、楽譜通りに弾かせること、それもしっかり弾かせること、それ以上のことを何もやっていない。楽器間のバランス調整/細かいニュアンス付与/ルバート設定/特定モチーフの強調/音色の制御/ハーモニーの制御など、そういう細かい特徴は全然なし。別に朝比奈が老齢でボケているわけではない。たとえばスケルツォは非常に速いテンポを採用してぐいぐいすごい勢いで進める。全楽章通してテンションも郄め(ただし録音がオフマイク気味でマイルドに寄っており、最初の内はわかりにくいかも)に維持されており、緊張感は途切れていない。指揮者はちゃんと演奏を指揮できている。ということは、細かいあれこれがないのは、指揮者の故意なのである。朝比奈隆の譜読み能力がどうだったのか私にはよくわからず、よってこの一種の不作為が「できない」のか「できるけれど敢えてやらない」のかは見分けられないが、少なくとも「この人の譜読みは凄い!」と思わされる瞬間はまるでないのは確かだ。だが音楽の進行は非常に力強く、オーケストラは鳴り切り、重めのリズムが良い意味での重量感を生み、スケールは豊かで、懐は深い。要は腹の底から音が出ているというだけなのだが、圧倒的威容があるのは事実。認めてしまおう。これは素晴らしい演奏である。手はまるで込んでないけれど、よくわからないながらイイと感じるのである。こういう演奏を聴くと、音楽って何なんだろうと悩んでしまうんですよねえ。
 なお、第二楽章の提示部で木管がもつれている。このミスは目立ちます。当時から都響は下手なオーケストラではないし、朝比奈の棒の問題とも思えない箇所でやらかしてますので、このミスをもって演奏者を難じる気はしません。実演ではこの程度はよくあることですしね。問題は、なぜこの盛大なミスが残ったまま音盤になっているのかという点。発売する気で録音していたのであれば、修正しても罰は当たらなかったと思うのだが……。まあ当時はライブ一発撮りこそ真正、みたいな変な宗教が流行ってましたけどね。