不壊の槍は折られましたが、何か?

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クラウディオ・アバド/ヨーロッパ室内管弦楽団 シューベルト:交響曲第8(9)番ハ長調《グレイト》

amzn.to
 1987年12月、ウィーンのコンツェルトハウスでのセッション録音。交響曲全集の中の一枚である。なお私が聴いたのはアップロード映像に掲げる《アバド・シンフォニー・エディション》の1枚としてだ。このセットには、シューベルト交響曲こそ全曲入っているものの、オリジナルでは《未完成》のCDにカップリングされていた《グラン・デュオ》が除かれてしまっている。よって、私は、彼らの当初のアルバム・コンセプト通りには、この交響曲全集を聴けていないことをお断りしておく。
 さてこのアバドの《グレイト》は、シューベルトの自筆譜によるとされる楽譜を使用しているのが、最大の特徴かつ問題点だ。というのも、第三楽章の主部の楽想追加はまだわかるにせよ、第二楽章で、他の演奏・録音では(現時点の私の知る限り)聴いたことのない音型が出て来るからである。初めて聴いた時は椅子からずり落ちるかと思うぐらい驚いた。そして正直申し上げて、今もってこの第二楽章には違和感バリバリである。その後この採用楽譜に追随する指揮者が確認できていないこともあり、アバドの《グレイト》は完全に異色・変種・異端である。よってこの録音は、よほどのことがない限り今後も末永く《珍盤》であり続けるだろう。ということで、初めて買う《グレイト》の音盤にこれを選んではいけない。
 しかし解釈は意外とオーソドックスである。そしていつもの通り、アバドは和音を大事にしつつ、細かいところはオーケストラに委ねて、自分は指揮棒一本で、音楽全体を俯瞰できる展望台を用意するのである。なお第一楽章の序奏は主部に比べて遅く、コーダの例の序奏主題再帰においてはテンポが落ちる。第二楽章は歌謡性主眼であってリズムは強調されていない(リズムの刻みは柔らかである)。スケルツォも生命力はあれど常識的な範疇を逸脱せず、フィナーレも同様に奇を衒わない。さらに、ビブラートは普通にかけられているなど、ピリオド楽派の影響が見受けられない。録音があと10年遅ければ、アバドはビブラート控えめ、テンポ速め、金打強奏、フレージング短縮といった方向に舵を切っていただろうだが、この全集ではアバド古楽奏法の邂逅はまだおこなわれていないということになる。
 節度を保ちつつ各場面の表情がなかなかロマンティックであることも指摘しておきたい。実はアバドシューベルト交響曲全集では、《未完成》と《グレイト》が飛び抜けてロマンティックであり、交響曲第1番から第6番は割とプレーンな表現になっている(楽しげではあるが)。アバドがリハーサルで細かく指示するタイプでなかったことを考えると、細部のニュアンスについては楽団員の自主性に委ねた可能性が高いだろう。これが謎を解く鍵ではないかと考える。つまり、《未完成》と《グレイト》はメジャー曲だけあって、楽団員個々人にも愛着があり、指揮者が委ねてくれた部分ではそれを表現に繋げたということではないだろうか。一方で第1〜6番はマイナーな曲であるため、楽団員に「ここはこうやりたい」との希望や拘りは特になく、よってより中立的な演奏になったのではないか。
 アバドは特に作為的になることなく、横の流れはパースペクティブ確保を最優先にしてオーケストラを導く。和音をしっかり(できればふくよかに)鳴らして温かいハーモニーを作ることに注力しているのも特色だ。そしてこれをベースとして、楽曲と楽団員の親和性を極限まで高めるよう仕向けている。思うにこれがアバドの芸風の中核だ。このことに私が気付いたのは、彼とルツェルンの来日公演をナマで聴いてからだった(それがアバドの実演初体験でもあった)。コンサートが始まってものの1分も経たないうちに、気付くのが遅過ぎたと後悔したものである。前世紀中に理解できていれば、ベルリン・フィルとの来日公演にも万難を排して行ったのになあ。まあそれはともかく、《グレイト》もその流れに竿を差す好演だと思う。アバドは21世紀になると仙人化し、個性の刻印がどんどん弱まり、指揮者主導の表現意欲というものさえ薄めて、オーケストラの団員との協働で、楽曲を実にさり気なく演奏するようになっていったが、このシューベルト交響曲全集には、その萌芽が感じられる。健やかで伸びやかでしなやか、それでいて豊かな音楽がここにある。ここには、楽曲を俺様が解釈してやるとの熱気や強い自意識などまるでない。優秀な楽団員たちが素晴らしい指揮者と出会ってシューベルトのスコアを再現するという《機会》の得難さと、それが実現したことへの感謝の念である。
 ヨーロッパ室内管弦楽団のアンサンブルは素晴らしいけれど、これより上はまだある。興奮や悲嘆、忘我、没入、耽溺、惑乱などを聴きたいのであれば、他の演奏をとるべきだろう。でも音楽をただひたすら楽しむ演奏家たちにニコニコしたければ――そして頬を緩ませているうちに、自分がいつの間にかシューベルトの世界に深く入り込んでいると気付く体験がしたければ――この音盤は、なかなかいい。先述のように第二楽章の音型の問題があるので、演奏自体は標準的であるにもかかわらず、標準的な音盤とは口が裂けても言えないのが残念である。