不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

読売日本交響楽団第505回定期演奏

19時〜 サントリーホール

  1. ベートーヴェン:歌劇《フィデリオ》序曲
  2. ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調op.73《皇帝》
  3. (アンコール)ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番ニ短調op.31-2《テンペスト》よりフィナーレ
  4. ベートーヴェン交響曲第6番へ長調op.68《田園》

 辻井伸行が酷い。最初から最後までずっと一本調子で、曲想の弾き分けなど全くできずただ単に猪突猛進するだけ。タッチもそこまで美しくないし、何より、どんな音符も文脈無視して同じようにしか演奏しないのである。テンポもこれ以上ないぐらい硬直、つまらないこと夥しい。特に弱音部のニュアンスの無さと、速いパッセージの無機物っぷりは酸鼻極まりなく、聴いているのが苦痛であった。ミスタッチも年齢の割には多め。協奏曲のフィナーレでは意識的に力を入れて弾いていたように思われたが、迫力と熱意こそ認められるものの、フォルムが乱暴になっただけであった。というかこの人、パッション出す時は鍵盤ぶっ叩くしか能がない臭い。アンコールは高速テンポで一気に駆け抜けつつ、意外な声部を浮き上がらせたりほんの少しテンポを揺らすなどして、オッと思いかけたが、ミスタッチが協奏曲に輪をかけて多くなり、細部の暗譜も怪しくなっていたように思う。ここまで崩れるのは半世紀早い。弱音部が聴くに堪えないし基本的に乱暴なのも協奏曲と同じ。酷いピアニストである。誉めるとすれば、アンコールもベートーヴェンにして、今日の演奏会の様式感を維持したことぐらいか。
 しかしオーケストラは素晴らしかった。ハーモニーの解像度こそやや低めでしたが、楽想・モチーフの解像度は高いという演奏で、そして何よりも、カンタービレに溢れていた! メロディーの歌わせ方がコブシでも耽溺でもなく、実にイタリアっぽい本当に強靭なカンタービレになっていて本当に感心した。本日の演奏会の方向性が端的に表れてたのは《フィデリオ》序曲で、初期ロマン派のイタリア・オペラの序曲であるかのように、愉悦に満ちた快活にして饒舌な「幕開けの音楽」が奏でられていたように思う。というかあそこまで行ったら完全にオペラ・ブッファ、今日がこの序曲初聴という人に訊いたら、作曲者がドイツ人しかもベートーヴェンだなんてわからないのではないか。協奏曲の伴奏も素晴らしく、ピアノが鳴っていない間は大いに楽しませていただきました。《田園》も素晴らしく、第一楽章は饒舌な序曲、第二楽章はセンチメンタルでソフトなアリアやデュエット、第三楽章は愉快な重唱、第四楽章はロッシーニの嵐の場、そしてフィナーレはやや重たい響きをしている読響の特性も相俟って、本当に熱いカンタービレでぐいぐい聴かせた。うっかりすると退屈になりがちなこの曲を、スリリングにさえ仕上げたカリニャーニ、やはり只者ではない。オーケストラのアンサンブルには若干の瑕がありましたが、あまり気にならなかったなあ。
 なお本来であれば、カリニャーニは本公演直前の先月から今月上旬にかけて、新国立劇場で新製作の《コジ・ファン・トゥッテ》も振る予定(むろんその間ずっと日本に滞在予定)だったが、原発を懸念してこれをキャンセルした。ところが、その発表当初から、オペラの新プロダクションだと長期滞在になってしまうが、オーケストラのコンサートだけなら短期間で済むので行けるかもと言い、読響との予定はキャンセルしなかったのである。読響ではモーツァルトのレクイエム×2日、今日のベートーヴェン・プロ×2日を指揮する予定となっていて、結局、こちらはいずれも予定通り振ることとなった。原発を懸念して訪日を拒否する演奏家が相変わらず多い中、カリニャーニの事例は大変興味深い。