不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

特別演奏会 ハーディング・新日本フィル × マーラー5番

19時15分〜 サントリーホール

  1. (追悼演奏)エルガーエニグマ変奏曲op.36より第9変奏《ニムロッド》
  2. マーラー交響曲第5番嬰ハ短調

 ハーディングは3月11日に新日フィルの Music Partner 就任披露公演をおこなう予定であったし、同月内に他にも演奏会が予定されていた。しかしご存知のとおり3月11日に東北地方太平洋沖地震の本震が発生、首都圏の交通機能は麻痺した。ハーディングと新日本フィルは100人程度しか観客が入っていないすみだトリフォニーホールにて、予定通り演奏会を挙行、ハーディングは観客全員と握手した。その後もハーディングは東京にとどまり、予定通りのコンサート開催と、震災に対するチャリティ・コンサート開催を画策するも、交通状況や余震リスクによりそれは果たせなかった。その間、福島第一原発が爆発しているが、ハーディングはコンサート中止が決定されるまで東京に踏み止まってオーケストラの事務局にも顔を出し差し入れするなどしている。加えて6月にチャリティ・コンサートや代替日程を組むことを早々に決定したのだ。見上げた根性といえよう。状況と経緯、ハーディングの心境は新日本フィルのHPで確認できるので、是非参照されたい。
 一方、新日本フィル音楽監督アルミンクは、3月13日付のお見舞いメッセージで「一刻も早くチャリティ・コンサートを指揮したい」などと格好を付けたはいいが、4月の鳴り物入りのオペラ公演《薔薇の騎士》を「理性が勝った」とキャンセルし、空いた日程でヨーロッパのオーケストラやオペラハウスをほいほい振りに行ってしまった。音楽監督との信頼関係が崩壊した状況下にあって、ハーディングの男気は、楽団員と事務局の中の人々にとって、新たな精神的支柱となったことは想像に難くない。
 今日の演奏は、その信頼関係が大いにプラスに働いていた。ニムロッドから非常に繊細な息遣いの音楽になっていたが、それはマーラーでも貫徹されており、葬送行進曲も、第二楽章の嵐のような音楽も、ワルツもアダージョもロンド・フィナーレも、弦の立体的で洗練された響きをベースに、細部まで神経の行き届いた演奏が展開された。時折パートやモチーフを浮かび上がらせるなど、仕掛けはかなり細かく為されたが、音楽の流れは全く阻害されておらず、スムーズかつ端正な「枠」を見せていた。バーンスタイン辺りだとこの曲を世界そのものの絵巻として扱っていた(よって第一楽章と第二楽章は世界の終わりのようなスペクタクルが展開される)ように思うが、ハーディングの演奏では作曲者の心の声に耳を澄ますかのような、パースペクティヴの高さと怜悧さが前面に出ていた。演奏家の思い入れ(思い込みとも言う)を生々しくぶちまければマーラーはうまく行く、という時代は終わったようだ。代わりに、より虚心坦懐かつ冷静に作曲家自身に迫る演奏傾向が主流となりつつある。とはいえ、今日の演奏は「冷静にスコアを読んだ」結果であるにもかかわらず、極めてオリジナリティの高い、個性の強い演奏になっていた。ここら辺がハーディングの面白さであり、マーラーの凄いところでもある。マーラー未だ定まらず。
 というわけで解釈は大変素晴らしかったが、新日本フィルには瑕が多かった。金管木管はミスを頻発、時々弦と管がずれそうになってハーディングが振りを大きくする場面が散見された。これは単に下手糞というよりも、ハーディングの高い要求を正面から受け止めて、果敢に音化に挑んだ結果であるため、非難されるべきことえはない。事実、彼らの意欲と覚悟のほどはビンビン伝わって来た。しかしもっと上の完成度を目指せたし目指すべきだったことは否めない。今の新日本フィルにとって、ハーディングという指揮者はオーバースペックなのかも知れない。とはいえ、ハーディングと新日本フィルとのコラボレーションはまだ始まったばかり。今後に期待したい。なお本日は一般参賀なし。
 あと、聴きながら思ったが、新日本フィルはひょっとすると「日本の音」を一番体現しているのかも知れない。読響と東響は結構肉食系だし、N響はどっしり構え過ぎ、都響はかっちりし過ぎ、東フィルはレベル差のある楽団がくっ付いた楽団であるゆえ日によってレベルが一定せず、日フィルはこう言っちゃなんですが貧相、東京シティ・フィルは明らかに一番下手。これらの中で、新日本フィルは機能性の面でトップクラスとは言えないが、日本庭園を思わせるような、厚さも味も薄いけれどもよく洗練された響きを自然かつ安定的に出している。加えて指揮者の解釈にも積極的に乗って来る。世界的な客演指揮者陣が、彼らとの共演を繰り返してくれるのは、このオケを振るのに異種格闘技戦のような面白味を感じているからではないだろうか。うんすまんね、ただの妄想だ。
 以下雑談。今月のハーディングと新日本フィルの一連の演奏会は、ネット上の反応を見る限り、3.11と関連付けられて特別な文脈で聴かれ、語られている。そしてこのような状況になると、聴衆の反応が三通りに分かれてくる。一つは平常運転で普通に聴いている人。二つ目は演奏家の演奏外での行動に「物語」を見て、それを評価に上乗せする人。最後は、二つ目の人々の熱烈な反応に疑義を呈して、返す刀で演奏を貶す人である。
 いずれの立場も理解できるし、どれが正しいという問題ではないが、これだけは言っておきたい。演奏家に対する評価はともかく、演奏に対する評価はあくまで演奏によってのみ為されるのが本筋だ。しかし、演奏行為そのものが演奏会に支えられている以上、その演奏会の雰囲気――それは演奏側のみならず、興業側そして聴衆全体によって形成される――も演奏に大きな影響を及ぼすはずである。だから今回のように、「物語」が客観的に明白で、少数の聴衆が勝手に妄想をたくましくしているわけではないケースでは、日本人聴衆と楽団員によるハーディングへの思い入れと感謝の念は、一概に否定されるべきではないし、皮肉も向けられるべきではない。この点ははっきりさせておきたい。
 なお本日も、ハーディングは終演後すぐに箱を抱えてロビーに出て来て、義援金を募っておりました。