不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

シュトゥットガルト放送交響楽団来日公演 東京公演

サントリーホール 19時〜

  1. ハイドン交響曲第1番ニ長調Hob.I-1
  2. ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調op.77
  3. (アンコール)イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番イ短調op.27-2〜第1楽章
  4. エルガーエニグマ変奏曲op.36
  5. (アンコール)ワーグナー:歌劇《ローエングリン》第3幕への前奏曲
  6. (アンコール)ウォルトン:《ファサード》からポルカ

 遊び心満点の、素晴らしい演奏会であった。ノリントンは常々「ノン・ヴィブラート」を旨としている指揮者であり、その奏法をここ12年ほど叩き込まれているシュトゥットガルト放送響は、ヴィブラートを排したザクザクした音を盛大に立てていた。しかし彼らの演奏は学究色に染まらず、常に愉しさを忘れない。音楽の鮮度は常に高く、指揮者や奏者が笑顔を見せている場面すら散見される。編成を極端に絞り込んだ(何せ弦は3-2-2-1-1だ!)一曲目のハイドンからそれは明らか。もっともこの曲はバロック的な手法が用いられているので、ノン・ヴィブラートでやられても全く違和感はない。通常規模の編成になった協奏曲の伴奏でも、乾き気味の音色とメリハリの利いた表情付けには変化がなく、油断すると弛緩気味になるこの曲を、スリリングなものに仕上げていた。
 一方後半の《エニグマ変奏曲》をノン・ヴィブラートでやられると、さすがに違和感も覚えてしまったが、それでも「いい音楽を聴いている」という実感が上回ってしまう。眼下に広がるあの人数のオーケストラが、一致団結してノン・ヴィブラートで盛り上がっているのは色んな意味で壮観。そしてざらざらした触感になるサウンドにより、楽曲は随所で予期せぬ新鮮な表情を見せる。でも要所ではサウンドがさらに一段締め上げられて、「ノン・ヴィブラートだから自然とこうなりました」以上の、明らかに意図的な尖った音を出して、ノン・ヴィブラートの野放図な垂れ流しとは一線を画した演奏が展開されていた。
 この奏法でやると、音楽が必然的に「ピュア・トーン」ならぬ「すっぴん」になり、オケの腕が非常に露骨に見えて来る。その点、やはりこのオケは超一流ではないことは細部のミスから明らかとなってしまう。しかし、割と奇妙な解釈も見せる指揮者に全幅の信頼を置き、その指示に細かいところまで従いながら、一緒になって楽しそうに音楽に取り組む姿は、見ていて・聴いていてとても楽しい。真面目に演奏する局面では表現が淡白になる傾向が見受けられたため、何でもかんでもこの組み合わせで聴きたいわけじゃないですが、楽しく音楽に耳を傾けたいときは、こういう指揮者とオケが一番なのかも。あ「ノン・ヴィブラートだから」ってわけじゃなくて、一見奇妙な奏法も拒否せず、むしろ駆使して全力で遊ぶ姿勢に感心したってことね。2曲のアンコールでも様相は同じ。ノン・ヴィブラートを、このオーケストラは自分のものにしてしまっているようです。
 しかし当夜で一番面白かったのは、協奏曲でのソロとオケの対比でした。オケはノン・ヴィブラートでザクザク進軍してんのに、パク・ヘユンのヴァイオリンだけはヴィブラートを遠慮なくかけていて、もの凄く浮いていたんです。でもこの浮きっぷりが意外と嫌じゃない。演奏者側も同じ思いなのか、弾き方が違うのは明らかに皆わかってるのに、パクもノリントンも楽団員も皆本当に楽しそう。パク自身は非常に真っすぐなヴァイオリニストで、若い女性(まだ17歳!)ながら、時々音が汚くなるのも厭わずに、果敢に突進。その方向性が、ノン・ヴィブラートによる斬新なブラームスに意外とマッチしていた、ということでしょうか。まだまだ発展途上の人だとは思いますが、こういう思い切りの良さは若さの特権かも。オケ側の奏法に合せなかったのは、パクがまだこの奏法を試みるほどには熟達してない、って面もあったのでしょうか。少女ヴィブラート中。