不壊の槍は折られましたが、何か?

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海底牧場/アーサー・C・クラーク

海底牧場 (ハヤカワ文庫SF)

海底牧場 (ハヤカワ文庫SF)

 21世紀、世界連邦食料機構は、鯨を海で放牧して、人類の食料の1割を賄っていた。その海底牧場で鯨を管理する一等監視員ドン・バーリーは、新人のウォルター・フランクリンの指導を任される。しかしどうやらウォルターには過去があるようで……。
 カウボーイならぬホエールボーイの一代記である。複数のエピソード(時代も年単位で飛ぶ)が連なって一つの長編を構成しているが、牧鯨にまつわる話であることは一貫している。鯨類という巨大な動物が遊泳する海の光景は実に鮮やかで、イメージ喚起力が半端ではない。まさにクラークの真骨頂を見る思いだが、もちろんそれだけではなく、本書はもっと奥深いものを備えている。それは、海洋と宇宙の対比である。
 詳述しないが、作品世界では、宇宙で生まれ死ぬ人間が普通にいるほど、宇宙開発も順調に進んでいるにもかかわらず、物語は序盤で「宇宙から海洋へ」といった方向性をはっきりと打ち出し、テーマ上の主たる関心を地球に回帰させる。海の方が宇宙より神秘的で謎に満ちているとの記述も見られ、描かれる数々の事象も魅力たっぷり、宇宙もいいけどやっぱり海だよ海、と思わせられる。ところがどっこい、最後の最後で大逆転が待っているのだ。もちろん、作中の海の魅力は最後まで色褪せない。しかしその海洋を人類のために活かす思想体系に、「宇宙」というものが重く、しかし華麗に圧し掛かってくるのである。このパラダイムシフトは、SF小説としての本書の白眉といえよう。クラークは晩年、生きている間に宇宙人がいる確証を得たかったと述べたという。『海底牧場』を読むと、クラークがまさにそういったことを言いそうな人間であったことが、実感を伴って理解できるはずだ。
 もっとも日本人である私としては、クラークが『海底牧場』で出した結論には異議を挟まざるを得ない。そもそも、解説の藤崎慎吾が指摘するように、日本人云々は一切度外視してもなお、最終的に姿を現すイデオロギーはあまりにも楽天的だろう。だが私は、この結論の当否をもって『海底牧場』を、そしてクラークを判断するのはおかしいと思う。我々が見るべきは、海洋の魅力をかくもクリアかつ緻密に練り上げ、かくも壮麗な光景を作り上げ、しかしそれでもなお満足せず「前方」を、それも人類史の遥か彼方にある「前方」を真摯に、そして可能な限り理知的に見詰めようとしたクラークの視線、知性、意志に他ならない。クラークはなぜ偉大なのか。なぜSF界最大の巨頭と認められ、ほとんど全てのSFファンが敬意を払って止まないのか。「単純に、小説が面白いから」だけでは説明できない、その理由の一端が、ここには確かに示されているのである。