不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

蠅の王/田中啓文

蝿の王 (角川ホラー文庫)

蝿の王 (角川ホラー文庫)

 昔の教え子には出世で追い抜かれ、学生たちからは気味悪がられ、妻には堂々と浮気される。そんな老考古学者が、発掘現場から禍々しい壺を発見した。それは考古学者の抑圧された悪意と反応し……。一方東京では、一人の少女が淫夢を見て、妊娠してしまった。時を同じくして、東京では数々の猟奇的かつ不可思議な殺人事件が多発し始める。
 タイトルと表紙からしてヤバそうな、SF成分も相当に混入したホラー小説の大作である。虫の大群と血や贓物にまみれた惨状を、田中啓文は実に気色悪く描くことに成功している。悪趣味スレスレどころか悪趣味そのもの、穢れた場面が怒涛の如き奔流に、我々読者は為す術がない。それらの全てには、今ここでこのシーンを描きたいとの作者の意欲が横溢しており、主要登場人物がいずれも歪んだ情念を抱えていることと相俟って、実に濃厚な読み口を読者に提供するのだ。世界に危機がひたひたと迫る緊張感に裏打ちされ、大部なのに全くダレることがないのも素晴らしい。なお、物語は新宿で怪獣映画的クライマックスを迎えるが、興味深いのは、このシーンが意外にあっさり終わる点である。作者が描きたかったのは、あくまで世界の破滅を前にした個人であって、世界のカタストロフ全体ではなかったということだろう。
 というわけで総じて傑作だが、最後の落着が若干弱いことだけは残念。竜頭蛇尾とは言い過ぎだが、失速の感があるのは否めない。弱いとすればここだけなので、余計に残念であった。なお気になる駄洒落は今回控えめで、作品全体はシリアスな雰囲気で一貫している。ホラー・ファンは必読、従来田中啓文のギャグがダメだった人も問題なく楽しめよう。