不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

ミステリ講座の殺人/クリフォード・ナイト

ミステリ講座の殺人 (ヴィンテージ・ミステリ・シリーズ)

ミステリ講座の殺人 (ヴィンテージ・ミステリ・シリーズ)

 往年の著名な推理作家が、邸宅でミステリ創作講座を開く。そんな中で、第一の殺人が起き、犯人はわざわざ銅鑼の一種を轟かせて死体発見を早めるのだ。ここら辺の舞台設定や謎は非常に魅力的だろう。しかし真相がショボ過ぎる。犯人の不合理な行動が全く理解できないというか、正直作家の側で説明を投げたに等しく、爪の先ほども評価できない。某アイテムの正体および隠し方も、事情を知る登場人物がたまたま喋らなかっただけというお寒いもの。一事が万事この調子で、ロジカルな説得力が極めて弱い。売りの一つであるらしい「手がかり索引」も、実質的には単なるシナプシスであり、手がかりでも何でもない上に、C・デイリー・キングのそれのように、笑えるようなものでもなく、いかなる意味でも評価には値しないだろう。登場人物造形が完全に張りぼてなのも問題で、新本格を批判していた人々は、多くの場合人間描写がなっていないことを理由に挙げていたが、どう考えても『ミステリ講座の殺人』に比べれば遥かにマシである。同じクラシック・ミステリということで、たとえば取ってつけたようなロマンスを揶揄されることがあるカー作品と比べても、『ミステリ講座の殺人』に出て来る人間ドラマは色褪せて映る。よくもまあここまで活き活きとしていない人物を描けるものだ。
 本格ミステリは人間を描けていない、いや描く必要もない、謎と推理のための駒であればそれで良い、という意見は多い。しかし、駒には駒なりの性格やドラマが付与されるのが普通だったんだなあと痛感した。ストーリーテリングも下手糞であり、話にならない。
 そんなこんなで、完全に形骸化した本格ミステリであり、実につまらない。その裏には、ガジェットを詰め込めばマニアは喜ぶはず、という作者の安易な姿勢が透けて見え、全く感心しない。加賀美雅之二階堂黎人の場合は、作家自身が楽しく書いていることが鮮明に伝わってくるのだが、この作品にはそれすらない。どうしようもない駄作といえよう。