不壊の槍は折られましたが、何か?

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さよならの次にくる〈卒業式編〉/似鳥鶏

さよならの次にくる <卒業式編> (創元推理文庫)

さよならの次にくる <卒業式編> (創元推理文庫)

「東雅彦は嘘つきで女たらしです」愛心学園吹奏楽部の部室に貼られた怪文書。部員たちが中傷の犯人は誰だと騒ぐ中、オーボエ首席奏者の渡会千尋が「私がやりました」と名乗り出た。初恋の人の無実を証明すべく、葉山君が懸命に犯人捜しに取り組む「中村コンプレックス」など、〈卒業式編〉は四編を収録。デビュー作『理由あって冬に出る』に続くコミカルな学園ミステリ、前編。

 米澤穂信が思春期の人間の「全能感」を描いているとすれば、似鳥鶏は本書で思春期の人間の「劣等感」を描いている。本書の一人称の主人公「僕」は、名探偵役を務める伊神や、元気一杯の柳瀬、お調子者のミノといった灰汁の強いキャラクターに押されている。それどころか「お姉さん」と呼んでいる普通の大人の女性にも押し負けており、どうにも情けない。この時期の人生の中心テーマの一つである恋愛に関しても、かなり割を食っている。しかし「僕」は、基本的には健気な奴なのだ。報われなくて切ないではないか。
 また主人公は、地の文で複数回にわたり述懐するように、本書で展開されるような学園ミステリのことを、スケール矮小のどうでもいい出来事だと認識している。典型的なのは二番目の短篇「中村コンプレックス」である。ここで主人公は、色恋沙汰がらみの嫌がらせ事件は、軽い動機でもできるため、殺人などとは異なり動機から犯人を絞れないと認識している。これはつまり、自分たちが出くわす事件そのものが軽いと言っているのに等しく、自分の周囲の世界に対する考え方が結構シビアだ。そして本書で起きる出来事の数々は、いずれも登場人物の人生や性格に甚大な影響を及ぼしたりはしないのである。むろん、社会にもだ。方向性として、世界系とはまるで逆といえよう。
 というわけで本書は、酸っぱめの青春を見事に切り取っているのだが、本格ミステリとしての詰めの甘さは否めない。「針と糸」系の物理トリックを学園ミステリでやるのは勘弁して欲しいし、その実現可能性にも疑問符が付くものが多い。また犯人特定ロジックは全四篇ともに脆弱だ。そしてこれが致命的なのだが、説明がわかりにくいのである。アイデアを推理という形で整理するのがちょっと苦しそうなのだ。この作家は、本格ミステリに向いていないのかも知れない。ただし作者は、各篇の合間に挟まれる断章で、連作短篇化の意向を剥き出しにしている。よって8月に出る続篇を読むまで、評価は保留しておいた方がいいだろう。
 文章は全体的に若干生硬だが、それも青春らしくていいではないか。つましい思春期を送った人には楽しめるはず。本好きにはそういう人が多数派だろうから(偏見)、おすすめです。