不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

完全恋愛/牧薩次

完全恋愛

完全恋愛

 洋画界の巨匠・柳楽糺(本名:本庄究)は、幼い頃、空襲で両親と妹を亡くし、福島県の温泉村にある伯父が経営する旅館に引き取られた。そこで下働きをするうち、究は少女・小仏朋音に出会う。彼女こそ、旅館に下宿する画家・小仏榊の一人娘であり、究が生涯をかけて愛する女性となるのであった……。

他者にその存在さえ知られない罪を完全犯罪と呼ぶ
では
他者にその存在さえ知られない恋は完全恋愛と呼ばれるべきか?

 最初に断言しておこう。本書は、推理文壇の大御所が齢七十五にして書いた、著者の新たな代表作である。「牧薩次」というのはその大御所の別名義に過ぎない。
 この大御所は、事と次第によってはメタ性を前面に出すことも厭わない作風を持つ。しかし本書にその要素は希薄で、代わりに、柳楽糺の一代記といった性格を有する。そして、彼が生涯抱く密かで切ない《愛》が通奏低音として響くのである。物語の雰囲気だが、眉間に皺が寄ったようなシリアスさは表面に浮かんでいないものの、所謂ギャグは見られず、基本的な筆致は真摯なものだ。主要登場人物を鮮やかに、そしてしっかりと描き出すことに成功している。物語全体では、戦後史をある程度俯瞰するような視点や挿話が用意され、ミステリ云々を全く意識しなくても実に面白く読める。
 そしてその上で、本格ミステリの手法が炸裂する。本書には奇怪な不可能犯罪が3つも含まれ、中でも「なげき――地上最大の密室」は圧巻である。何せ2300キロもの距離がある遠隔殺人である。しかもテレビ中継による殺人予告という、ド派手な演出付きなのだ。本書にはこの他、駐留軍の将校殺害の凶器消失を扱う「おもい――時代錯誤の凶器」と、ある人物が二箇所に同時出現する「わかれ――究極の不在証明」というパートが存在する。これらの事件は原則として、論理的またはツイストの利いた推理によって解き明かされるし、伏線も各々ちゃんと具備している。謎の大きさに負けない真相が揃っているのも嬉しいところだ。更に、ここが最大のポイントなのだが、全てのミステリ要素が人間ドラマと分かち難く結び付いている。本格ミステリとしての解明が人間描写に見事に繋がっていくのだ。この点では道尾秀介『ラットマン』と共通するが、『完全恋愛』の方が登場人物によりシビアである。本書の真相は、人生の無情と悲劇性、登場人物の慟哭を伝えてやまず、読み応えを確かなものにしている。なお、先ほど「シリアスさは表面にない」と言ったが、その内実は、既読者ならばご存知のとおりである。といっても過剰に陰鬱なものではないので、ご安心願いたい。
 よくよく考えてみると、本書で語られる恋愛は「完全恋愛」になっていないのだが、そこを責めるのは、作者にとっても登場人物にとってもさすがに酷かもしれない。道尾秀介『ラットマン』と共に、本格ミステリならではの人間描写が達成された傑作として、本書はできるだけ多くの小説ファンに読んでもらいたい。