空の中/有川浩
- 作者: 有川浩
- 出版社/メーカー: メディアワークス
- 発売日: 2004/10/30
- メディア: 単行本
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しかし私は、《きみとぼく》に強い違和感を覚えたことを告白せねばなるまい。
途中、ファーストコンタクトの相手《白鯨》が日本各地を空襲(?)する場面があるのだが、作者はこの部分を、淡々と事実をもって記載するだけで、現出したであろう血なまぐさい殺戮、人々の恐怖、怨嗟などを表出しない。もちろんこれは作者の確信犯であり、《社会と世論の動向》を事実上無力透明化することで、高校生たちの悩みを《個》のものとして掘り下げる働きを持つ。要するに、ストーリー展開上《殺戮》は必須だが、そこにかまけると話がでかくなってしまうので、高校生三名の個人的事情に終始するべく、《殺戮》を簡素にまとめ、深入りを避けたのだ。ここでの《殺戮》は、瞬がフェイクに命令を下す契機、および、真帆が物語の前面に登場する契機としてしか機能していない。
しかしそれってどうなのだろう。あの殺戮の後、世論は確実に《白鯨》脅威論に傾斜し、できることなら殲滅すべしとなったはず。瞬・真帆・フェイクがいればそれも可能と判明した瞬間、それは一大フィーバーとなって日本を駆け巡ったはずだ。私が問題としたいのは、そのような周囲の狂騒・熱気・期待が、瞬や真帆に影響を与えないはずがないということだ。重圧もあろうが、少なくとも圧倒的多数の日本人が熱狂的に支持してくれるとなると、未成熟な人格しか持たぬ瞬や真帆は、自分の言動に正義を感じ始めるに違いないのだ。そして自分が正義と考える以降の人間ほど、始末に終えないものはない。
何が言いたいかもうおわかりかと思う。要するに、瞬も真帆も、やったことに比して不自然に素直過ぎるのだ。特に真帆は、かような軟弱な精神基盤ではあそこまではやれないだろうし、ラストも、爺に調伏されるのではなく、最後まで抗してこそ物語的に美しかったと思うのである。瞬も、「何か違う」と思いつつではなく、「俺は正しい!」と突き進んだ先が間違いであったことに気付き愕然とし、必死にフェイクを止めようとする落差の激しさがあってこその主人公だと思うのだ。そこまで行かずとも、たとえば、真帆に熱狂する人々の前に連れ出され、「何かがおかしい、でももう後戻りできない」と複雑な思いをさらに深める、なんて描写があっても良かったはず。
私はとんでもなく見当違いなことを言っているかもしれない。というかその可能性の方が高い。以上だらだら書いたことは、《俺はこっちの方が感動するね》というだけに過ぎない。しかし私の感性は、瞬や真帆を《描き方に難あり》と捉えてしまったのだ。申し訳ない。