不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

カンタベリー物語 貿易商人の話/チョーサー

貿易商人の話の序

学僧の話を受けて、貿易商人は細君が口が達者な悪妻だ、じゃじゃ馬だとぼやく。そして、生涯女房を持たなかった人は、自分の細君の意地悪に感じる悲しみほど悲しいことはないのだろうとも叫ぶ。しかしながら、どうやら彼は、結婚して二か月程度しか経っていないようだ。新婚さんじゃねーか。さて宿の主人は、このこと(悲しみ)の一部でも話してくれるよう促す。貿易商人は承知するものの、惨めで悲しくなるから自分の話はしないと述べ、以下のような話を始める。

貿易商人の物語ここに始まる。

ロンバルディアに住む未婚の立派な騎士ジャニュアリィは、六十歳になった時、唐突に結婚したいと願い始めて、嫁探しを始める。貿易商人は、結婚の素晴らしさを何ページにもわたって説く。世継ぎだの妻は若い方がいいだの内助の功だの、現代の視点からすると「ん?」という要素も散見されるが、総じて結婚を礼賛し、妻というものの素晴らしさを故事格言を引きながら強調し。妻の言葉に耐えて従えと言う。惚気ているのではなさそうで、捨て鉢か皮肉の臭いがする。

さてジャニュアリィは、友達を集めて言う。自分は墓に片足を突っ込んでいるが、速やかに妻を娶ろうと思っている。妻の年齢は二十を越えていてはいけない。三十歳の女なんぞまっぴらだ。自分はまだ肉体的にはまだ元気だ。だから結婚したいという自分の意志に賛成してくれ。気持ち悪過ぎる。当時の貴人の結婚は色々とアレだし、現在でも超大金持ちの結婚だって本当にアレだが、別にジャニュアリィはトロフィー・ワイフが欲しいわけではなさそうだ。世継ぎを産ませることも第一目標には出て来ていない。ただひたすら、可愛い子ちゃんとキャッキャウフフしながら、幸福に暮らしたいというニュアンスが強い。気持ち悪過ぎる。

友人たちは意見を言う。中でも二人の兄弟は意見が対立していた。プラセボという男は結婚に賛同する。一方、彼の兄弟ジュスティヌスは反対する。頭の良しあし、酒癖、経済状態、男狂いかどうか、調べるべきことは沢山ある。基本的には好きなようにすべきだとは言うが、三年も妻をたっぷり《満足》させることはできないだろうと指摘する。ジャニュアリィは容れず、他の者も、ジャニュアリィの好きな時に望む人と結婚することに同意した。

しばらく結婚相手を探していたジャニュアリィは、遂に一人の乙女を心に定める。彼は友達を再び集めて、真実の天国には苦難と苦行による代償を払って行くべきである以上、現世で結婚の幸福を享受するといけないのではないかと不安に思っている、と吐露する。二十歳の女との結婚生活がうまく行くに違いないというこの思い込みよ。気持ち悪過ぎる。ジャニュアリィの行動を愚行だと思っていたジュスティヌスは、「結婚にそんな大層な幸福ないから心配するな(大意)」と述べた後、突然こんなことを言い出す。

さてと、皆さんがご理解になりましたように、バースの女房はわたしらの当面の結婚の問題のことでは短いながらとても上手に話しました。さようなら。神様が皆さんをお守り下さいますように。

この「バースの女房」が本当に唐突。登場人物が突然一つ上のメタレベルに移動するんじゃない、と言いたいところだが、これは鍵括弧の位置の誤植(つまりこれは実際には地の文=貿易商人の台詞)なのか、チョーサーの故意(本当にジュスティヌスがこう喋っている)なのか。判断は付きません。

ともあれ、反対されなかったジャニュアリィは、件の乙女、美しくみずみずしいメイ*1と結婚する。婚礼の場でメイは妖精のように美しかった。ところが、ジャニュアリィの近習にして、彼のために肉を切るほど信頼されている騎士ダミアンが、メイに惚れてしまう。そして体調を崩してしまうのだった。一方、ジャニュアリィに妻メイに夜の行為(なぜか歌も歌う)をしてご機嫌であったが、メイは毛ほどもそれを賞賛する気にはなれなかった。さてダミアンが体調を崩し出仕しないことを憐れんだジャニュアリィは、自分も見舞うし、それよりも先に妻メイに見舞わせることにした。想い人に見舞われたダミアンは彼女に恋文を渡す。メイはそれを引き裂いて便器に投げ入れる*2。しかしその晩、彼女は寝る際、夫に裸になるように言われて従う。何か楽しい戯れをしたかったらしい。これに対する彼女の気持ちは記載されていない。だがメイの脳裏からはダミアンが離れなくなり、彼を憐れんだ彼女は、返事の手紙(Yesの返事であったことが仄めかされている)をしたためてダミアンの元に行き、手紙をそっと彼に握らせて帰って行った。翌朝、ダミアンは元気いっぱいで起き上がり、職務に復帰する。

そうこうする内に、ジャニュアリィは失明する。恋は盲目とかではなく、本当の失明である。幸福の絶頂で盲目になった彼は、嫉妬深くなって、メイをいつも手の届くところに置いておくようになった。そんなある日、他に誰も入れないようにして、夫婦は庭を散策する。ジャニュアリィは嫉妬深いのを許せ(というよりも許容せよとのニュアンスに近い)と言い接吻をせがむ。メイは泣きながら、私が裏切ったのであれば殺してくれ、男はどうして女を不実だとこんなに非難するのかと反駁するが、その視線の先にはダミアンがいた。予め庭に忍び込んでいたのである。メイは合図し、ダミアンは梨の樹に登る。

一方、庭の反対側には、妖精国の王プルートーとその妻プロセルピーナ*3は、この様子を見ていた。プルートーは女を非難したソロモンの言葉を引きつつ女性の不実を責め、立派な騎士がそれを見ることができないのは可哀そうだと、“不正”の最中に老騎士の視力を戻してやると宣する。一方プロセルピーナは、あいつ多神教偶像崇拝者だったじゃねーか(大意)*4とソロモンを批判し、女性に対する難癖に悲憤慷慨する。プルートーは妻をなだめて、女性云々の部分は事実上撤回するものの、約束は守るしかない*5と、ジャニュアリィの視力は回復させると宣言する。一方プロセルピーナは、メイにはメイの答えを与えてやろうと言う。

さてメイは、ジャニュアリィと共に梨の樹の下に差し掛かると、お腹が減ったから梨を食べたい、ついては自分を背中に登らせてくれと夫に頼む。ジャニュアリィは承諾して背を屈める。メイはそれを伝って樹に上っていく。そして、樹上にいたダミアンは、メイの下着の引き上げてその中へ押し入った。

この瞬間、プルートーはジャニュアリィの視力を回復させる。視力が戻ったことを喜ぶ暇もあらばこそ、彼の目に飛び込んできたのはメイの浮気現場だった。妻相手に激怒するジャニュアリィであったが、メイは、視力が回復したててありもしないものが見えているだけだと夫を言いくるめる。

あなたの視力が落ち着くまでは、あなたは何度も何度もあなたの視力に騙されるでしょ う。どう気をつけなさい、お願いです。

すげえ度胸、すげえ鉄面皮。しかしジャニュアリィは納得してしまい、メイと共に嬉しそうに屋敷に戻るのであった。

なおメイは妊娠しているようだ。誰の子なのか?

貿易商人の話の跋

女性は狡猾だ。そして貿易商の妻も様々な欠点を持っているが、そんなことはどうでもいい。なぜか? チクられるからである。といったところで、貿易商人は話を終える。

総評等

新婚なのに妻を恐れる貿易商が語る、貞淑な妻を熱心に探しながら実際に結婚した妻は不貞をかまして言い逃れも見事な人間だった老爺の物語。皮肉が効いていてよろしいです。バースの女房はじめ女性の活き活きしたところを肯定的に描くチョーサーにとって、この物語はどういう位置付けだったのだろうか。まさか、不貞もまた良し? 確かにジャニュアリィは幸せそうでしたな。

*1:メイは話の中で頻繁に「美しくみずみずしい」と形容される。六十歳のジャニュアリィとの対比表現でしょうなあ……。

*2:「流す」ではない点に注目。いやそりゃそうなんですが、こういうところに環境の違いが出る。

*3:つまりハデスとペルセポネーがいた。随分唐突に出て来た印象だが、実はそのちょっと前に、庭で彼らが踊っているとの文章があるのだ。庭が美しいことの比喩だとばかり思っていたよ。こういうことがあるから、昔の物語は油断できない。

*4:ローマ/ギリシャの神であるお前はそれでいいのか、という気しかしないが、「ああ! たった一人の真実の神様にかけて」とかも口走る。どう考えても唯一神よりも下位の存在として描かれている。中世キリスト世界におけるギリシャ/ローマの神の位置付けが何となくわかるというものだ。そもそもこの物語では、彼らは神ではなく妖精の王と女王と書かれている。妖精にデウス・エクス・マキナを委ねられるか疑問に思う向きは、シェイクスピアの《真夏の夜の夢》を想起いただきたい。

*5:約束でも契約でも宣言でもなく、女王と一緒にいる時に口走っただけに見える。それでも約束になるのか。妖精も大変ですな。