不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

チャイルド44/トム・ロブ・スミス

チャイルド44 上巻 (新潮文庫)

チャイルド44 上巻 (新潮文庫)

チャイルド44 下巻 (新潮文庫)

チャイルド44 下巻 (新潮文庫)

 1953年のソ連。国家保安省の捜査官レオ・デミドフはスパイ容疑者*1の逮捕に成功したり、遺体の状況から見て自分の息子は殺された物騒かつ危険な主張をおこなう*2同僚捜査官フョードルを説得したりなどして活躍していた。だがレオは、美人の妻ライーサに絡んだ姦計に嵌められ、妻共々僻地の警察署に左遷されてしまう。そこでレオを待ち受けていたのは、フョードルの息子同様、不審な《しるし》が残された幼い児童の遺体だった……!
 1978〜90年にかけて発生したチカチーロ事件をモデルに、時代をスターリン時代に変更して、作者は捜査官の苦悩を描く。作者の創作動機は、国家がイデオロギーを優先して存在を認めなかった犯罪によって無辜の子供たちが次々と殺されたことに対する憤激であったようだ。このためか、たとえ時代設定を変えても、ロシアでは発禁となっている。
 事件内容は連続殺人鬼ものに他ならないが、本書はサイコ・サスペンスではない。前面に立つのはあくまで捜査官レオ・デミドフであり、本書はまず何よりも彼の小説なのである。彼はソ連という国家に忠実な公僕で、最初のうちは、自らの秘密警察じみた職務が世のため人のためになると信じている。しかしフョードルの主張や、スパイの濡れ衣を着せられた挙句処刑される容疑者、左遷先で見かけた子供の遺体、そして妻ライーサの本音を知るに連れ、次第に変わり始めるのである。彼は所謂「思うところがある」状態になり、左遷先で独自に連続殺人者を調査し始めるのだ。この主人公造形で面白いのは、彼が国家を信じている頃においても、抑圧された社会に住んでいることを自覚し、常に影を引きずっていることである。レオだけではなく、太平楽な人生観を持つ登場人物は本書の中には一切登場しない。スターリンの粛清の嵐、疑心暗鬼の交錯が物語の全てを暗く覆っている。連続殺人そのものよりも、当時のソ連社会の《現実》そのものが登場人物と読者に重く圧し掛かってくるのである。
 息をもつかせぬ波乱に満ちた展開、レオとライーサの関係の変化、そして驚愕の過去など、エンターテインメント小説としても素晴らしい出来栄えを誇る。あくまで読みやすいことも強調しておきたい。陰鬱なだけの話でないことも保証しよう。しかし暗めの色調で進んだ話の最後に読者の胸に残るのは、ソ連の陰そのものである。その陰という現実と折り合いを付けながら、それでもなお生き抜く人々の姿である。これに打たれない読者は稀なはずだ。『チャイルド44』は紛れもなく真の傑作であり、本年度を代表する作品として広く遍くおすすめしたい。

*1:むろん冤罪である。さすがは同志スターリン治下のソ連

*2:なぜ物騒かつ危険なのかというと、理想的な共産主義社会において凶悪犯罪は存在しないはずだからである。