不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

ジョージ・セル/クリ―ヴランド管弦楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

 1957年11月1日、セヴェランス・ホールでのセッション録音。ステレオである。
 ひやりと冷たい肌触りの演奏だが、決して機械的ではない。吉田秀和の表現をアレンジして書きますが、これは金属の冷たさではなく、陶磁器の冷たさである。それも極上の。セル時代のクリ―ヴランド管というと音に聞こえた20世紀の《行くところまで行った》アンサンブルの一つだが、その特性がフル活用されている。エッジの効いた弾き方だと音は合わせやすい(あるいは音が合って聞こえやすい)のだが、このオーケストラにそんな措置は必要ない。滑らかな弾き方なのにさらっと異常な精度で音を合わせてくる弦は本当にヤバい。フィナーレは完全にマジキチである。また木管金管もあまりに上質過ぎる。ソロの場面など、どの管も実に上手い。セルはこのオーケストラに対して、楽曲全体の構造は流線形に美しく磨き上げて見せること、そして各場面では、セルの指示する《最適》なバランスの音を鳴らすよう要求する。目立たないパートは本当に全然目立たない辺り、最近流行りの、どのパートもくっきり聴かせる演奏とは一線を画する、
 基本的にクールな演奏なのだが、パッションがないわけではないのがポイントだ。どの楽章でも、控えめながらも抑えがたい高揚感が見られる。第二楽章でもテンポをちょっと速めて心から何かが溢れる切迫感すら生み出していて見事。それらの激しくなりかねない情動が、総奏の終了 or 管楽器ソロによってクールダウンされる。このクールダウンがまた素晴らしいのだ。また第一楽章やフィナーレのクライマックスでは、弦が心もち音を引っ張るなど、芝居気すら垣間見せてくれる。これらは隠し味的にしか作用していないかも知れないが、とはいえこの隠し味がこの演奏の印象全体に大きな影響を及ぼしているようにも思われる。セルが、セッション録音においてすら、人工的だの非人間的だのと難詰されることが少ないのは、要するにこの隠し味があってこそではないだろうか。大変厳しく統制されているのだけれど、その厳しさを厳しさとして表面化させないよう統制された――つまり、通常の《厳しい統制》よりも更に一段上のレベルの統制が為されている――演奏にあっても、はみ出す感情や感傷がある。それがとても利くのである。あるいは、「冷たいけれど穏やか」という佇まい自体に、聴き手の何らかの感傷を惹起するトリガーがあるのかも知れない。
 もちろん、クールな箇所も実にいい。第二楽章や第三楽章トリオ、フィナーレ第二主題での木管群の歌は、特別なことは何もやっていないのに、そくそくと胸に迫る何かがある。スケルツォも楽想の旋回が儚げだ。オーケストラの総奏には、熱気がないけれど迫力はあるのも特筆すべきことだろう。あ、あとフィナーレでトランペットが凄い目立ち方してます。録音バランスの問題って可能性もありますが、他の場面のことを考えると、これはセルの指示の可能性が高いと考えます。後年のEMI録音も聴くと確証が持てますが、あっちは持ってないし、現在廃盤中なんだよな。
 カップリングは《ロザムンデ》関連の三曲。どれも素晴らしい演奏だが、序曲は《グレイト》に比べるまでもなく実に画然とした演奏(特に主部!)で、意外の念に打たれました。メロディーもかなり揺らしてます。やはり大指揮者、曲によってやり口変えて来てるんだよなあ。