不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

カーリーの歌/ダン・シモンズ

 アメリカで権威ある同人誌に参画し、自身詩人でもあるロバート・ルーザックは、死んだはずのインド人詩人ダースが生きているとの情報を得る。ダースの新作を同人誌に掲載しようと考えたロバートは、妻のアムリタ、まだ幼い娘ヴィクトリアを連れてカルカッタへ飛ぶ。だがダースの周囲には、カーリーを新興する教団の影がちらついて……。
 他国の繁華街で、屋台などが集中し夜ごった返す界隈などは、テレビ番組で取り上げられる際には、活気に満ちた肯定的なイメージで紹介される。しかし活気とは、熱気や臭い、そして混沌を容易に連想させる。ましてそこは異国(異界)であり、人の顔、言葉、扱われる事物、風習などなどが、決定的に見慣れない。人間は未知のものに興奮するか、恐怖するものである。テレビのバラエティなどでは前者が強調される。では後者を強調すると……?
 思うに、『カーリーの歌』は、そのような物語である。冒頭でカルカッタは、主人公によって、存在することすら呪わしい場所、放置されることすら許しがたい街と明言される。『カーリーの歌』は、主人公がなぜそのような確信に至ったかを明らかにする、おぞましい物語である。ここで作者は怪異の存在を匂わせ、カーリーの具現する暗黒と破壊、そして悪徳をメインに据える。本書を通して描かれているのは、人類の誕生以来延々と応酬されて来て、人類史の根幹を成すとさえ言える「死・破壊・暴力の闇」と、それに対するダン・シモンズの抗いのメッセージである。しかし、なぜその象徴としてカルカッタを使ったのかという問いには、「それがインドの大都市で、作者がアメリカ人だったからだ」と答えることになると思う。
 これには誤解がつきまとう。アメリカは白人が主導する国家であると共に、世界を今のところ制覇している西洋文明の原題における代表国家である。ゆえに、(執筆当時の1985年には発展途上国であった)インドを舞台にして、エキゾティックなイメージを「おぞましい」ホラーとして展開した本書は、人種差別に基づく作品として批判される可能性を抱え持ってしまったのである。しかし本書には差別などない。本書は、「死・破壊・暴力の闇」を克服することは特別なことでも何でもない、日常においても十分できるはずだ、と主張する。このため「死・破壊・暴力の闇」は非日常に対置される必要があったのだ。ダン・シモンズは、この非日常性を異国情緒に求めた。単にそれだけであって、作者がインドやカルカッタに含むところは皆無なのだ。インド人が同種の目論見で書けば、ニューヨークやキリスト教が邪悪の象徴を演じただろう。エキゾティックな気分は、決して明媚とばかりは限らない高揚と衝撃をもたらす。ダン・シモンズは、これを利用したに過ぎないのだ。
 などと延々と曖昧な話をしてきたが、本書も各種要素が曖昧である。最も不明瞭なのは、女神カーリー絡みの怪異が本当に起きたことなのか否かだ。もちろん夢オチなどではなく、非常に残酷な出来事が多々起きているのだが、カーリーが実際に出て来て喋るといった単純なホラー小説ではない。本書の怪異はもっとつかみ所がなくて幻想的で、そして重々しいものである。だからこそそこに解釈の余地が生まれ、作品意図を読解する意欲を刺激する。本書はエンターテインメント小説としての顔だけではなく、文学的な顔も併せ持っているように思われた。『カーリーの歌』は世界幻想文学大賞を受賞しているが、それもむべなるかな。