不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

サトシ・マイナス/早瀬乱

サトシ・マイナス (ミステリ・フロンティア)

サトシ・マイナス (ミステリ・フロンティア)

 大学生の稲村サトシは、吉沢カレンとの結婚を母親にどう報告するか悩んでいた。気が強い者同士の母とカレンの気が合うとは思えなかったのだが、つらつら考えるうちに眠り込んでしまう。だがこの眠りの間に、サトシのもう一つの人格が覚醒する。実は彼は多重人格者だった。幼い頃、サトシは25項目にわたって自らの人格を分割しており、現在の彼は気弱な「サトシ・マイナス」だったのである。しかし、覚醒した「サトシ・プラス」は積極的な性格の持ち主で、あることを目論む、
 多重人格ものではあるが、サイコ・サスペンスでは全くない。本書は稲村サトシという、22歳の青年の自分探しの旅路を描く作品であり、登場人物は基本的にいい奴ばかりで、作者がサトシはじめ登場人物に注ぐ視線はあくまで温かい。物語の行き着く先は(当然ながら、かつ、残念ながら)サトシのトラウマだが、そこに肺腑を抉るような生々しい痛切な感情は据えられていない。作者の所作はあくまで上品であり、《深刻なドラマ》を直裁に描く場面ですら、一種飄々とした洗練された風情を保つ。ここら辺は伊坂幸太郎に通じるものもある。
 興味深いのは、そもそもサトシの多重人格は、自作の25項目リストを忠実になぞった結果生じたものであるということだ。要は自力で、ある程度能動的に多重人格になったのである。このとぼけた設定もまた伊坂幸太郎に通じるところだが、この変な設定ゆえに、通常「おぞましい狂気または病態」として描かれる多重人格が「奇妙だが悲しく健気な純真さ」として打ち出されているのは面白い。