不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

あるキング/伊坂幸太郎

あるキング

あるキング

 題材は野球。本書は、ある一人の天才的スラッガーの二十数年の人生を、誕生から(恐らく)死まで、駆け足気味に辿る。こう書くと熱血スポーツ小説かと思われそうだが、実態は全く異なる。その佇まいは実にシュールであり、多くの読者を戸惑わせると思われる。
 東北の地方都市に本拠地を構える、プロ野球チーム仙題キングスは、万年最下位にとどまっている。オーナーや首脳陣、そして選手にも上昇志向はないが、地元の市民からは愛されているチームだった。そのチームの監督が、ベンチで転倒して頭を打って死んだまさにその時、本書の主人公・山田王求が誕生する。「王求」という名前には、熱狂的キングス・ファンの両親が「王が求め、王に求められる」との願いが込められている。長ずるにつれ王求は、強打者としての才能を開花させていく。小学生時代から既に恐るべき野球センスを発揮していた彼は、高校時代には将来を嘱望される球児になっていた。しかしある事件が起き、彼は高校中退を余儀なくされ、スムーズなプロ入りの道は閉ざされた。だがなおも自主的に練習を続けていた彼は、やがて運命に導かれるかのように、テストを受けて仙題キングスに入団することになる……。
 最大の特徴は、幻想性が非常に強いことである。主人公の王求は、プロ入り後ですら、打席に立つと、ホームランを打つか敬遠されるかなのである。凄い実力だが、これを実現するための厳しい練習風景が描写されることもなく、彼が野球に賭ける熱い想いが吐露される場面もほとんどない。王求自身は常に淡々としているし、周囲は周囲で、彼を王だ天才だと言いながら、ちょっと遠巻きにして冷静に、あるいは諦念を持って眺めている。王球に悪意を持つ人物も、彼に嫌がらせしてものれんに腕押しという感じなので、極めてやりにくそうだ。
 こんな野球選手など現実にはいるはずがない。こんな選手をマンガで出しても、最近は小学生だってギャグとしか受け取るまい。リアリティ云々を議論する以前に、とても幼稚な設定ですねと一蹴することすらできよう。はっきり言えば、本書で描かれる野球は絵空事以外の何物でもないのだ。伊坂幸太郎はこれを、いつもの飄々とした筆致で、淡白に描いている。
 そのままズバリ幻想的な存在も出て来る。魔女らしき影がそれだ。王求の人生の要所で、『マクベス』の魔女を思わせる影たちが姿を現す。彼ら(彼女ら?)は主人公のことを「王」と呼び、彼本人あるいは両親等の関係者に向かって、予言や託宣をうわ言のように口走るのだ。この他、プロ野球のスカウトがやたら物分りが良過ぎるし、仙題キングスのオーナーは企業人のくせにかなり破滅的な性格だし、王求の最期もあまりに場当たり的である。そもそも王求の誕生シーンからして、同日死んだ監督との縁を両親が確信しているのは不気味だ。要するに、どこもかしこもヘンなのである。
 以上から容易に判断できようが、伊坂幸太郎はリアリティを端から無視している。ここで描かれた野球は、伊坂幸太郎という人間が書いた『あるキング』という小説の中にしか存在しない「野球」であり、その他諸々の要素も、現実の球界と比べたって無意味である。その代わり、伊坂幸太郎は登場人物の運命を操る。王求の人生は短いながらも波乱万丈で、それでいて本人は何事にも不思議に動じない。その他の物も概ね人生を達観しており、物語は徹頭徹尾、運命論に支配されている。不安定な叙述形式――章によって二人称と三人称が切り替わり、視点人物もコロコロ変わる――も、これを助長する。何やら不思議な小説を読んだ――そういった「充実感」を、読了後、読者ははっきりと感じ取ることができるだろう。ストーリーを追うだけでも結構楽しい。やはり伊坂マジックは健在なのである。
 しかし正直に告白しておきたい。『あるキング』は非常に危うい小説だと思う。ストーリー展開や会話文の、小気味良いテンポとリズム。思わせぶりな言及ともっともらしい台詞に漂う、お洒落な雰囲気。ここら辺についての伊坂幸太郎のセンスは本当に非凡だ。しかし『あるキング』にそれ以上のものはあるのだろうか。
 内容がファンタスティックなので、前述のとおり、本書の「野球」が非現実的だと批判するのは的外れである。しかし、本書の「野球」が何のメタファーにもなっていないのは問題ではなかろうか。登場人物には野球馬鹿が多く、彼らの言動や思考・感性は、他の局面や分野での応用が全くきかない。感情移入が困難なうえに、神話的意匠まで持ち出して伊坂幸太郎が本書で何がやりたかったのか、よくわからなくなっている。
 そして、それ以上のより本質的な問題がある。『あるキング』では運命論が最優先で、人間の意志の力を無視または軽視する姿勢があまりにも顕著なのだ。「運命は切り開くものだぜ!」などという鬱陶しい叱咤をやりたいわけではないし、どう頑張っても無理なもんは無理という局面があることは――私もいい加減おっさんだから――実体験込みで、痛切に理解している。しかし、登場人物に情熱や意欲がまるで感じられないほど、全てが「運命」で蒸留された小説世界には、さすがに一抹の不安を感じる。真に大事なこと、肝心なことが、『あるキング』には何一つ書かれていないのではないか。センスにまかせた文章を書いてばかりで、地に足を付けることを忘れていないか。伊坂幸太郎は悪い意味でスノビズムに毒されているのではないか。そんな疑念が頭から離れない。
 文章は読みやすいし、それなりに感慨深いセリフも多々含まれている。また私の不満も、「伊坂幸太郎は『あるキング』において神話を書きたかったのだろう」と解せば、納得はできないが理解は可能だ。よって本書を高く評価する向きも少なくあるまい。ただ、いずれにせよ、『あるキング』が読者を選ぶ問題作であることは間違いないはずだ。読まれる場合は相応のお覚悟を。