不壊の槍は折られましたが、何か?

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カルロ・マリア・ジュリーニ/シカゴ交響楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

amzn.to
 1977年4月、シカゴのオーケストラ・ホールでのセッション録音。ジュリーニがシカゴ響の首席客演指揮者を務めていた時期の録音である。当時、音楽監督ショルティであった。
 基本のテンポ設定は少々遅め。ただし第一楽章の序奏は主部が遅いテンポである割には速い。この序奏を主部に比べてあまりに遅く演奏するのは楽理的に間違い、とされるようになって久しく、ジュリーニのこの序奏部解釈はその反映と言えるだろう。ジュリーニは1914年生まれだが、序奏部のテンポに関してこういう解釈を施すようになった最初期の世代に該当するかもしれない。違ったらごめん。
 そしてこの演奏を聴いた誰もが言うことだが、第一楽章の主部にテヌートが目立つ。あまりに強烈なんで私は初聴時に椅子から落ちるかと思ったし、何度聴いても違和感が残る。とはいえこれは奇を衒ったわけではなく、楽想をじっくりと歌い抜くことを第一義とした結果とられた必要な措置であり、実際、第一楽章のあちこちで、魅力的で力強く、しかし寂寞感も忘れていない素晴らしいメロディー処理が見受けられる。違和感を覚えた私にしても、同時に強い説得力を感じてもいるわけで、この演奏全体に本テヌートはしっかり溶け込んでいるということです。リズムが死んだり躍動感が失われたりもしていないのも凄いところである。そして第二楽章以降は、テヌートも多用されるけれど第一楽章ほどの違和感はない。
 ということで全体感の話。この演奏の本質は、各旋律線の堂々たる歌い込みであり、重めのリズム感でありつつ推進力も確保、オーケストラを伴奏に至るまでしっかり鳴らし、かつメロディーを歌い切る。結果として、スケール豊かな巨大な音楽が目の前に現出することになるのだ。ここでポイントになっているのはシカゴ響で、ジュリーニが細かく制御しているわけではなさそうなのに、木管群はニュアンス攻撃をまるで仕掛けて来ない。これはアメリカのオーケストラの特徴かなと思わぬでもない。その代わりに、あり得ないほどの高級感(安全安心のブランド感と言い換えてもいい)に満ちたサウンドが聴き手を包み込む。弦楽器、金管、打楽器も含めて、力感は十分以上に出ているのだが、同時に、徹頭徹尾とてつもなくシックなのだ。実にジュリーニらしい演奏だが、このオーケストラでなければここまで徹底できたかは怪しい*1。細部のニュアンスは多少均されて平明に傾くとはいえ、このノーブルさと豊饒性には圧倒される他ない。あと、指揮者とオーケストラの齟齬やら衝突、あるいは指示の追求度不足などが全く感じられず、一体感が強く聞こえることも付言しておきたい。注で述べた通り、この演奏がジュリーニの希望通りの結果を導き出せているかどうかは、判断を保留する。というか、ジュリーニはもう故人であり証言を取ることすらできないので、判断を下す機会は完全に失われている。ここで重要なのは、私には指揮者とオーケストラが一致していると聞こえたということだ。まとまりの良い素晴らしい演奏。それが本録音に対する私の評価ということになる。

*1:ただし、ジュリーニが自主性の弱さを本気で容認しているかどうかまでは判断できないので、この「徹底」がジュリーニの意向/嗜好に沿うものか否かは判断を保留しておく。