不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

赤い拇指紋/オースチン・フリーマン

 初読(をい)。
 ダイヤモンド盗難事件と、まともな常識・良識を備えた名探偵(ソーンダイク博士)を、これまたまともな友人(ジャーヴィス医師)が、堅実な筆致による一人称で正々と描いてゆく。ワトソン役による名探偵への過度な讃美が見受けられないのは、なんとも心地よい。事件自体、派手さのない地味なものだが、プロットもトリックも手掛かり等もよく練られており、先述の着実な小説作法と相俟って、安易に殺人を起こさずとも長編一編を優に持たせている。誰だ殺人事件ないと長編無理とか言った奴は。最初期から見事な成果あるじゃないか! ケレン味抜き、落ち着いた正攻法の筆をとくと見よ。
 とはいえ、全てが沈着かというとそうでもない。物語の重要な焦点の一つに、ジャーヴィス医師の恋愛が絡んでくる。事件関係者ジュリエット・ギブスンへの恋なのだが、彼女に対する讃美が凄い。ここだけ明らかにテンションが高いのだ。蘭子を誉めそやす黎人レベル。いやこっちは文章がうまいから、更に始末に終えない。

 女性はかくあるべしというわたしの考えを彼女ほど完全に体現している人、そして、わたしにこれほど大きな魅力を及ぼした女性には、いままで会ったことがない。彼女の美しさは言うに及ばず、その勇気と気品、優しさと儚さは、そのままわたしを完膚なきまでに征服するのに必要な、彼女の身に備わった武器であった。そしてわたしは完全に征服された。

 こんな文章を書いてしまうジャーヴィス君に、乾杯。とはいえ、彼女のことが段々気になってくる心理の推移はうまく描出されている。地の文における呼称が、ミス・ギブスンからジュリエットに代わるタイミングの上手さとか、唸った。
 というわけで、意外と広くお薦めできるんじゃないか。古典好きは必読。*1

*1:だからその歳になって読んでるのお前くらいだって。皆とっくの昔に読んでるんだって。