不壊の槍は折られましたが、何か?

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ジュゼッペ・シノーポリ/シュターツカペレ・ドレスデン シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》

シューベルト:交響曲第8番、第9番

シューベルト:交響曲第8番、第9番

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 1992年5月&6月、ドレスデン・ルカ教会での録音。カップリングは《未完成》である。
 その《未完成》で特徴的なのは、メロディーの切れ目において、通常は一旦間を取ってから(あるいは一呼吸置いてから)おもむろに次のフレーズを奏で始めるであろうところを、切れ目なくそのまま次にスタスタ移行する、ということであった。よって歌が途切れることはない。そればかりか、前の音がまだ鳴っているにもかかわる次を始めてしまう。これで歌い方が素っ気なければ、単に淡白なだけの演奏ということになる。しかしシノーポリは念入りにメロディーを漂わせており、質感は終始あくまで柔らかく、雰囲気は一貫して仄暗い。
 この特色は《グレイト》においても同様である。腹にずしりと来ない柔らかく軽やかで、しかしどことなく虚ろな歌を丹念に縒り合わせ、一片の繊細で美麗な織物に仕立て上げようとしていることだ。そして恐らく本質的には暗い音楽であることで衆目が一致するであろう《未完成》とは逆に、元気な曲としてのイメージが強い《グレイト》でもこのような音楽作りをしているがゆえに、シノーポリの個性は《グレイト》においてよりはっきり理解することができるのだ。シノーポリはこの交響曲のあちらこちらからメロディーを取り出して来る。しかしそれをコブシをきかせて歌い抜いたりはしない。イタリア人指揮者然とした、強靭なカンタービレも用意しない。それどころか歌い口はか細くか弱い。要は繊細なのである。他の指揮者であれば飛び跳ねるようなリズムとして表現するモチーフも、シノーポリの手にかかればメロディーとなり、うっかり触ると壊れてしまいそうな宝物として、意図的にかなり柔らかく滑らかに奏でられる。その歌い回しが呼び起こすのは、直接的な喜怒哀楽ではなく、周到に角を取られたハーモニーやトゥッティの上で蛍のように明滅する、雅な感傷である。これは特に前半の楽章で言えることだ。後半はさすがに雰囲気が晴れがましくなってくる。ただこれも、夏空ではなく秋空だなあ。
 この演奏には、シュターツカペレ・ドレスデンの力によるところも大きい。というよりも、このオーケストラがあってこそ、ここまで繊細なアプローチが可能になったのではないか。ソフトなサウンドがなければ、この解釈は説得力を持たないはずだからである。ここで展開されるオーケストラ・サウンドの美しさは、クセになりそうなほど蠱惑的だ。
 で、何故シノーポリがこんな珍奇な解釈に至ったかだが――ひょっとすると、シノーポリシューベルトに《死》のイメージを付与したかったのかもしれない。シューベルトが暗い作曲家でもあるということは、音楽ファンなら誰もが知っていることだ。ただしそれは交響曲作曲家としてではなく、室内楽・ピアノ楽曲・リートの作曲家としてである。それらの曲では、シューベルトは生と死をシームレスに繋げていたが、それは明るさと暗さを行き来する絶妙なメロディーに依るところも大きいのだ。《グレイト》は通常、それらの楽曲とは様相が異なる元気印の音楽として表現されることが多いけれど、シノーポリは、それが誤解だと考えて、メロディーの歌い回しを工夫することで、《グレイト》から、室内楽・ピアノ楽曲・リート同様の暗さを引き出そうとしているのである。まあこの考え方は間違っているかも知れいないし、というか間違っているのだろうが、いずれにせよ、シノーポリは、主旋律のみならず伴奏部分にまで滑らかで優美で、そして虚ろで妖しい歌い回しを適用し、独自の《グレイト》を実現した。これもまた、この名曲の新たな可能性を拓いた意義深い演奏であると信じる。