不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

新日本フィルハーモニー交響楽団第496回定期演奏会

19時〜 サントリーホール

  1. ワーグナー:歌劇『タンホイザー』序曲とヴェヌスベルクの音楽(パリ版)
  2. エルガー交響曲第2番変ホ長調op. 63

 最近の新日本フィルは、いい指揮者を揃えるのに気力と予算を使い果たし、協奏曲をあんまりやらない(やってもソリストが豪華じゃない)ことが多い。だが私はこの方向性は喜ばしい。協奏曲というのはどうしてもソリストが目立ってしまうし、オーケストラも指揮者もソリストに気を使う。まあここまでなら何も問題ないんだが、ソリストの演奏姿勢によっては、プログラム全体のバランスが崩れたりするし、辻井伸行のようなパンダ呼んだ日にゃあ協奏曲は指揮者とオーケストラの責任範囲外で駄演決定となり、捨てプロにしかならなかったりする。要は時間の無駄だ。だったら前半と後半入れ替えて、メインの方を先に聴いて、さっさと帰りたいんだよな。その方が辻井のファンも幸せでしょう。さっさと帰りたいと言えば、ソリスト・アンコール、これも鬱陶しいときがある。その分演奏会全体の時間が延びる上に、アンコールに何をやるか事前に発表されるわけじゃないので、帰宅時間がどうなるか全く分からなくなるのね。マチネーや翌日が休祝日のソワレはそれでもいいんだが、翌日も朝から仕事ですよ的な日の夜にそれをやられると、結構厳しい時があるんですよね。まあしょうがないし、演奏者はよかれと思ってやってるんだろうが……。
 とまあ以上のような不満を実は抱えているので、オーケストラと指揮者の力量だけで勝負することになる、ソリストなし公演は実は結構好きなのだ。他のオケでも増やしていただけないかなあ。
 閑話休題。本日の演奏は、ハーディングと新日本フィルのコンビの長所と短所が端的に出たものだった。長所は、とても繊細であり細かい所にまで心遣いがされているということ。短所は、慎重かつ理性的に鳴らされる余り、オケの音がそれほど解放されず、サントリーホールであるにもかかわらず音響の飽和が全くなくて、ちょっとでも舞台から離れると一種の疎外感を味わわされることだ。多分舞台の上では、とても親密で繊細な音が鳴らされている。だがそれはあまりにも放射性が希薄なそれで、数列離れた客席まで包み込まない。直接音がなぜこうもか弱くなるのか、このコンビは非常に興味深いコンビネーションを見せていると思う。
 この演奏様式で、ワーグナーは成功していた。巡礼はもちろんヴェヌスベルクの部分も響きはあくまで透明、だが息遣いが繊細で、そこはかとない聖性とエロスが薫る。劇的表現には背を向けていた辺りも、なかなか興味深かった。全曲演奏となったら、恐らくアプローチは変わって来るのではないか。それともドラマ表現は声に任せるのかしら。問題は後半のエルガー。もちろん光る箇所は何箇所もあって、どう向き合うか悩ましかった亡羊としたこの曲においても、最初から最後まで「おおここはこういう音楽なのか!」という瞬間が頻発した。だが演奏時間1時間を超える大曲として、一つの統合体として、まとまりある音楽だというイメージを持つには遂に至らなかった。恐らくハーディングは経過句も含めたミクロから音楽を立ち上げて、それらを連結して一つの音楽として聴かせるという方法論を採っているのだと思われる。今回はその連結が、ミクロに対する拘りに負けてしまっていたように思う。もっともこれは、ハーディングが同曲の指揮回数を積み重ねたら解決するような気もします。今後に大いに期待しておきたい。
 エルガーの最後、美しく音が消えて行き、会場が余韻に浸っている所で、まだ指揮者が指揮棒を下ろしていないのに、1階席下手前方のエリアの客が複数バチバチと拍手を開始。他のエリアが全く追随しなかったのでその拍手は消える――かに思われたが、1階席1列15番に座っていた、黒地白玉ワンピースを着たメガネのやせ気味のおばさんが、一向に拍手を止めない。釣られて、1階席2列13番〜15番のグループも拍手を止めない。ハーディングも諦めてこの馬鹿たちの拍手が続く中で手を下ろした。こういう馬鹿を痛い目に遭わすためには、さてどうすればよいのか。