不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団来日公演(東京1日目)

19時〜 サントリーホール

  1. マーラー交響曲第9番ニ長調

 マーラー交響曲第9番は死を描いた別離の音楽である。それが定説である。しかし、今まさに死に直面している足掻きや苦しみ、そして永遠の告別の嘆きに主情的に彩られた演奏に接するのは稀で、結構前から、美しく整えられたサウンドが聴き手をクールに包むといった演奏が増えているように思います。ただしいすれの場合も、自分のそれか他人のそれかの違いはあれ、死者を鎮魂する、たとえ洗練されていたとしても何か重苦しい特別な雰囲気が漂うことは否定できません。歴史的名盤で言えば、前者はバーンスタインワルター、バルビローリ、後者はカラヤンブーレーズアバド辺りが代表例といえましょう。
 だが、ラトルはいずれの方向性も取らなかった。
 まず驚かされたのは、リーダーシップを取る人物が良い意味で誰一人いなかったこと。オーケストラの演奏とは、指揮者と楽団人全員による共同作業なのだと言わんばかりに、とにかく団員全員ががむしゃらに、やる気満々に弾く弾く。アンサンブルの縦の線が揃ってるとか、サウンドが美しくバランスしてブレンドされているとか、そういう甘い問題じゃない。あらゆるパートのどんな末席も、極めて自主的に、自発的に、「自分の演奏」を充実させて響かせようとする。そして当たり前だが非常に重要なことに、演奏技術は全員、圧倒的に高い。その結果、どうなるか。あらゆる箇所のあらゆる音に血が通った、動的で活力に満ち、テンション高く聴き手を圧倒し尽くす、本当に素晴らしいブリリアントな演奏が現出するのである。ラトルはその中で、彼もまた必死に方向性を指し示すだけである。たとえ彼に明後日の方向を向かれているパート*1も全力で楽譜にぶつかっている。ではラトルは存在意義がないのかというとそれも当然違います。楽曲/楽章のパースペクティヴやフレージング、抑揚なども含めて、演奏のコンセプトはラトルが完全に掌握しており、楽団員はそれに命を吹き込む役目を担っていたわけです。どこからどこまでが100%指揮者の担当で、どこからが楽団員の仕事なのか。そんな明確な役割分担は、考えるだけ無駄で、全てが混然一体となった凄まじい演奏であったように思います。だからこそ、「指揮者と楽団員全員による共同作業」なのでしょう。ここまで高度なそれを見せ付けられたのは初めてです。クラシック音楽は、ベルリン・フィルをこき下ろしておけば(そしてカラヤン時代であればフルトヴェングラー期を、アバド時代と現在であればカラヤン時代を懐かしんでおけば)、簡単に通を気どれます。しかしこれだけは断言しておかねばなりません。今日のような演奏は、ウィーン・フィルにもシカゴ響にもコンセルトヘボウにもバイエルン放送響にもサンクト・ペテルブルク・フィルにもできない(あるいはやらない)、ベルリン・フィルだけの音楽であったと。
 演奏のコンセプト上の特徴は、まず第一楽章とフィナーレにおいて弱音に傾斜した演奏であったと思います。緊張感が全く途切れないし、表現の濃さも音がでかかろうが小さかろうが全く変わらない。そしてフィナーレのコーダでは、次第に音量が下がっていく中で、通常ならば指揮者に音楽が静かに集中していくような印象に襲われるところですが、さながらオーケストラ全体に音楽が静かに散って消えて行くかのような感想を得ました。一点に何かが集中しているのではなく、中間の二つの楽章では、リズムを強調し曲想を抉って、ややもすると退屈になりがちな箇所を極めて面白く聴かせました。どんな瞬間にも、聴き応えがあった。そして全体的には、かなり健康的な演奏であったと思います。フィナーレも、死に絶えるようにではなく、浄化されているように聴こえました。素晴らしい演奏会であり、世界トップの実力の高さを見せ付けられました。打ちのめされたと申し上げてもいい。
 時節柄体調を崩す人が多くなる時期なので仕方ありませんが、咳を繰り返す人が多かったのが残念。

*1:今日は弦が右からストバイ、ヴィオラ、チェロ、セカバイで、チェロとセカバイの後ろにコントラバスだったんですが、たとえば、ストバイとヴィオラの方を向いてラトルが指揮していても、逆方向のセカバイやチェロ、そしてコントラバスもやる気満々に弾いている