不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

クレーメル・トリオ来日公演(東京公演)

19時〜 サントリーホール

  1. シュニトケショスタコーヴィチ追悼の前奏曲(ヴァイオリン独奏とテープ)
  2. J.S.バッハシャコンヌ無伴奏パルティータ第2番ニ短調BWV1004から
  3. ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番ニ短調op.108
  4. ヴィクトリア・ポリェーヴァ:「ガルフ・ストリーム」バッハ、シューベルト、グノーの主題によるヴァイオリンとチェロのための二重奏曲
  5. ショスタコーヴィチピアノ三重奏曲第2番ホ短調op.67
  6. (アンコール)ペルト:半音階
  7. (アンコール)シューマン:6つのカノン形式による小品Op.56より第三曲

 本来ピアノはカティア・ブニアティシヴィリ(1987年〜)、プログラムも異なり、かつそもそも東京公演は4月8日に予定されていたのだが、原発事故を原因とする、彼女故国グルジアからの渡航回避勧告、親や友人の反対により来日中止。しかしクレーメルの友人であるアファナシェフが急遽代役を務めることとなったため、プログラムはかなり変更したが何とか開催にこぎつけたという公演である。なお日本ツアーはアファナシェフのスケジュール上の問題から、札幌公演は中止となっている。クレーメル自身、こんな時こそ行きたいのだが原発は爆発するし飲食物からは規制数値以上の放射性物質が検出されるしで、来日を中止せざるを得ないかもしれない、と何度もやり取りがあったようだ。そんな中でも来てくれた彼らには感謝しかない。
 演奏は素晴らしいの一言。クレーメルは元々美音を故意に避けているようなところがある演奏家だが、その方向性は最初の無伴奏作品二曲からも顕著であった。というかまさかこの人の《シャコンヌ》が聴けるとは……。しかし本当に凄かったのはブラームス以降。ブラームスソナタはムターでも聴いたが、あれよりも更に尖ったスタイルで、曲の精髄に鋭く切り込んでいく。ムターの奏楽から感じられた発酵したかのような馥郁たる抒情は皆無、彼の音楽は、人を鼓舞することも、ヒーリングすることもなく、常に張り詰めている。負と言っては言い過ぎだが、しかしそれに限りなく近い何かを掻き立て、突き立て、そして聴き手の精神を駆り立てて追い詰めるような音楽。こういう演奏は、ヴァイオリンという楽器に癒しを求める人には全く向かないだろう。だがこれもまた、音楽の――そして極限にまで臭いことを言えば「全ての」――真の姿なのである。アファナシェフの伴奏は、極めて物憂げで深沈とした演奏であったが、しかしその分深い音色で包容力は抜群。ヴァイオリンに委細構わずあまり音量を絞っていなかったが、不思議とクレーメルも弾きにくそうではなく、またアファナシェフも勝手なようでいてテンポ設定は常識的だった。個性的な奏者であることは間違いないが、ポゴレリチとは違い、仲間と共に音楽することもできるんですね。
 後半の最初は日本初演曲目。プログラム・ノートの執筆者にも内容の情報が入っていなかったようで、解説を投げ出していたが、この曲、タグを付けるとすれば「混ぜるな自然」となるだろう。バッハの無伴奏チェロ組曲第1番のプレリュード*1の上に、シューベルトとグノーの両アヴェ・マリアを被せるという、かなり無茶なことをやっている曲なのだが、これがまるで違和感がないのである。元々同じ曲だったんじゃないかというぐらい。基本的にバッハはチェロが、ヴァイオリンはシューベルトとグノーを担当しているのだが、時々入れ替わったりするのも面白かった。しかしクレーメルが弾くと、敬虔な祈り或いは癒しではなく、レクイエムのように聞こえるのが興味深い。
 正規プログラムの最後はショスタコーヴィチ。曲想から言えば、ピアニストには本来もっと鋭いタッチが求められているのだろうが、アファナシェフのボーン、ボーンという野太い音も意外とイケる。クレーメル、ディルヴァナウスカイテも強烈な演奏を披露。ショスタコーヴィチの沈鬱で皮肉な側面をまざまざと見せ付けてくれたように思う。
 時局柄、現在日本人に投げ与えられる音楽は、死者のために生者が贈る告別や鎮魂の他は、応援・激励・希望・幸福・安寧のいずれかが重視される。頑張ろう諦めるな前向き生きて行こうでもたまには現実を忘れてリラックスしてください。そんな感じ。ズービン・メータも、NHK交響楽団とのチャリティコンサートでの演奏曲目に選んだのは歓喜の歌、すなわち《第九》であった。むろんそれはそれで本当に素晴らしいことである。しかし私はこうも思う。それは真実ではないのではないか? 地震津波、そして原発事故がもたらした圧倒的な現実。そしてその現実を前にして右往左往する人のありさま。当初は自然に向かい、次第に政権・東電・社会・都知事イデオロギーを異にする者に向かい始める、嘆きと怒り、悲しみ、虚しさ、皮肉な想い。原発事故と放射能への純然たる恐怖。日本と、その日本に依拠している自分の仕事と生活はどうなってしまうのかという不安感。そして、被災者より前にそのようなことを考えてしまう利己的な自分への恥と絶望。これらは称揚される感情ではなく、抱いたことを公言したら叩かれるか眉をひそめられるか馬鹿にされるかする類のものだ。だが確かに存在する(否定したところで始まらぬ)。本日のクレーメル・トリオの演奏は、ここら辺の負の感情も含めて「聴き手と共に在る」ことを選んだ音楽になっていたように思う。まあ最後の曲がショスタコーヴィチだからこそではあるのだが、地震以後のトゲトゲしい、晴れぬ気分を見事に代弁してくれた錯覚すら覚えたのだ。
 この点、癒しに重心を置いたアンコール二曲は要らないように思われた。しかし演奏自体は大変素晴らしい。シューマンの方で、クレーメルもアファナシェフも本日唯一、優しい表情付けをしていたのが印象的である。
 いずれにせよ、今日の演奏は一生記憶に残る類のものであったことは間違いない。被災地の惨状を見ることの多い昨今は、言葉を失うことが多い時期と言えるだろう。しかし我々には、言葉がなくとも音楽がある。そのことを痛感させられる、良い機会であった。

*1:エヴァンゲリオン碇シンジが弾いていたアレです。