不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団来日公演(1日目)

サントリーホール 19時〜

  1. ブルックナー交響曲第8番ハ短調(ノヴァーク版)

 このオーケストラは過去に一度聴いたことがある。ブロムシュテットに率いられて《イタリア》とブルックナーの7番をやった日であった。その時の演奏は、現時点における私の生涯ベスト・コンサートで、《イタリア》の躍動と切なさ(!)、そしてブルックナーにおける「目の前で大変な事が起きているが、その万分の一も消化吸収できず、かけがえのないモノが自分の指の間をすり抜けて落ちて行くのをただただ呆然と眺めるしかない」感覚を昨日のことのように覚えている。
 そのオーケストラもカペルマイスターが交代した。というわけで前回と同じような演奏になるはずがないし、またそもそも、私がそんな「超越的な感動」を音楽に最初から要求することは断じてない*1。ただそれとは全く別次元の「期待」はかけていた。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は、ブロムシュテットの薫陶によって更に磨きがかかったとされており、後任者のシャイーもインタビューで「ブロムシュテットのおかげで、良い状態のオケを引き継げた」旨、謝意を表している。実際評判も良く、私は行かなかったが、2009年にシャイーと共におこなった来日公演には絶賛の声が多数上がっていた。というわけで、ワクワクしながら当夜を迎えたのである。
 演奏は、大変素晴らしいものだった。まずオーケストラの響きが素晴らしい。忌憚なく言わせてもらえば、恐らくゲヴァントハウスよりも上手いオーケストラは世界中で十指に余るはずだ。弦も木管金管もである。しかし当夜の演奏では、全体の音色はそれほどブレンドされず*2、さりととて各パートがくっきり分離されているわけでもなく、だが無秩序・乱暴にでもなく、木綿を思わせる充実した音を、豪快に目いっぱい鳴らし切っていた。その爽快感は本当に格別である。これはつまりアレだ。朝比奈隆在世時の大阪フィルの超上位互換ヴァージョンです。
 シャイーの雄大な演奏設計も見事である。基本的にリズムは重め、テンポも心持ち遅めで、じっくり楽想を追うのだが、神経質/細かいというほどではなく、細部はむしろ「豪快」。恐らく大枠はがっちり固めつつ、細部はオーケストラを信じてニュアンス系の指示はあんまり出してなかったんじゃないかな。フレージングはかなり入念に仕込んでいたと思しく、ただし豪快になりつつ決して野放図にならなかったのはこれが原因かしら。これらは奏功しており、この楽曲をスケール豊かに聴かせてくれたと思う。第三楽章のクライマックス、フィナーレのコーダの始めなど、所々で威勢良くパッショネートに突進しちゃうのがお茶目。スケルツォやフィナーレ冒頭など、リズミカルな曲想では結構楽しげな表情すら見せていたし、他の部分と対比しても特に浮くという感じでもない。要は、いわゆるブルヲタが期待するような質実剛健、謹厳実直、神妙あるいは神秘的な表情付けはあまり為されていなかったというわけです。ゆえに不満をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。でも私はたいへんに感心いたしました。うんこういうのもアリだな。
 客も素晴らしかった。花粉症シーズンなのに演奏中のくしゃみや咳は比較的少なく、静寂が保たれたブルックナー休止が結構あった(シャイーがあんまりタメなかったという要因もあるが)。第三楽章の最後では指揮者がまだ棒を下ろしていないのに複数の人がゲホゲホし始めて、「シャイーが怒ってた」「怒りが背中から伝わって来た」とtwitter上で呟いている人もいらっしゃいました。俺は特に怒ってるようには見えなかったが、いずれにせよ、あの咳とくしゃみはまあ仕方ない。25分以上かかるからなあの楽章。花粉症シーズンおまけに寒いことを考えれば、そりゃ我慢できなくなる人があれぐらい出て来ても当然でしょう。そしてフィナーレの最後、シャイーが棒を降ろすまで(まあ特にゆっくり降ろしたわけでもないですが)拍手もブラボーも無かったのは、NHKのテレビ収録が入っていたことを考えればほとんど奇跡的。こういう時には「テレビに俺の声を残すんだ!」とトンデモな自意識過剰に走る馬鹿が出がちなんですが、それがいなかったのは本当に慶賀すべきことでありました。
 シャイーも楽団員も満足気。楽団員が指揮者に拍手を送ることがなかったのは、シャイーがカペルマイスターだからか、彼らの間に隙間風が吹いているのか。でもニコニコ笑っている人が多くて、狙っていたことが果たせた会心の出来だったことは間違いなさそうです。当然一般参賀(1回)付き。楽団員で最後まで舞台に残ってゴソゴソしていたハープの姉ちゃんが、シャイーが一人で出て来た途端に慌てて舞台袖に下がって行ったのが面白かった。

*1:ああいう感動は、曲の内容、演奏者の才能はもちろん、彼らの準備、コンディション、曲と演奏者の相性、そして私の精神状態や体調、近隣席の聴衆、天候等々の全てに強く依存するので、期待するだけ無駄だし無理であり、それを聴き手が求めるのは「愚かな客の得手勝手な妄想」の一種に過ぎず、コンサート主催者・演奏者・作曲者に申し訳が立たない以前に、「音楽」そのものへの反逆である。

*2:つまりたとえばウィーン・フィルドレスデン・シュターツカペレその他のオケのように「一つの楽器のように聞こえる」わけではない。