不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

NHK交響楽団第1689回定期演奏会

15時〜 NHKホール

  1. ブリテン:戦争レクイエムOp.56

 演奏を云々できるほどこの曲は聴き込んでいないけれど、随所で聞き覚えのあるメロディーが出て来る辺り、記憶というのは意外と馬鹿にできないものだなと思った次第。なおN響も合唱も、独唱陣も結構良いパフォーマンスを繰り広げてくれていたように思います。ただしこの曲、音自体がそれほど大きくない。オーケストラは大編成だけれど、それが担当するのは基本的に典礼文の箇所であり、かつ弱音多め。音色は多彩――と言いたいところですが、ポツポツと音を置いて行くような箇所が多いので、そういう楽しみ方もできないしね。そしてウィルフレッド・オーウェン*1の詩をテノールとバスが歌う場面は、指揮者の周りに配置された小編成の室内アンサンブルが伴奏を付ける。合唱も声を張り上げるのではなく、抑え気味に典礼文を呟く。よって、巨大な上に響きがデッドなNHKホールではちょっとニュアンスが伝わりにくいように思った。この曲の初演は教会でおこなわれており、そういう点でももっと響きが豊饒な(悪く言えばお風呂めいた)会場に合うよう作られているんじゃないでしょうか。
 さて音楽は実演に接することで一層理解できるという一面を持つ。今日は私にとってまさにそういう機会となった。この曲が皮肉に満ちているのがはっきりと理解できたのである。神の意志と恩寵を謳う典礼文に、オーウェンの生々しい歌詞を対置させ、ぶつけ、絡める。そうすることで、典礼文に示された安息に深刻な疑念を提示しているのである。特に、アブラハムがヨーロッパ中の子供たちの半分を神に捧げるために殺戮し、その合間に舞台裏から児童合唱がHostias(神に生贄を捧げます、的な歌詞)をかぶせるシーン*2は圧巻。どう考えても宗教に対する皮肉で、ぞくりと来た。ここだけではなく全体的に、児童合唱の無垢な歌が白痴美的なニュアンスを込めて使われており、戦争(大量死)を前にしての典礼文の虚しさを際立たせていたように思う。
 モーツァルトヴェルディがそれぞれの時代におけるスペクタクル音響空間を作り上げていた《怒りの日》で、ブリテンがそこまでスペクタクルを繰り広げていないのもポイント。最後の日なのでラッパは吹かれるけれど、合唱は沈み込むような表情で貫徹している。この曲のベースにあるのは、反戦思想以上に《世界》に対する不信感であると思う。そこに勇壮な場面は不要であり、聴き手をフィジカルに鼓舞するのではなく、聴き手のメンタルに何かを突き付けねばならない。この曲がそういう音楽であることをしっかり示してくれた演奏者の皆さまには感謝申し上げたい。

*1:第一次世界大戦に従軍し、休戦直前に戦死。戦場での体験を詩に凝縮した。Wikipediaにも載ってます

*2:《オッフェルトリウム》の終盤である。