不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

読売日本交響楽団第498回定期演奏会

19時〜 サントリーホール

  1. ドビュッシー:《ペレアスとメリザンド交響曲(コンスタン編曲)
  2. コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲
  3. マーラー:野の花々が私に語ること(原曲:交響曲第3番第2楽章、編曲:ブリテン
  4. シューマン交響曲第4番ニ短調Op.120(第1稿)

 読響を聴くのは本当に久しぶりである。少なくともカンブルランが常任指揮者になってから聴いていないのは確か。でも結構このコンビが非常に評判が良いため、急遽チケットを手配した次第である。
 最初のドビュッシーから、極めてクリアなサウンドが楽しめた。しかもこの「クリア」は、日本のオーケストラが長らく志向してきたドイツ型の――つまり重低音をベースとしてピラミッド型に積み重ねられた弦をベースに、管が合いの手またはエピローグ式に入って来て、かつ全体としてリズムは重めという感触の――サウンドではなくて、もっとフラットでフレキシビリティが強く、しかしピンと張り詰めた怜悧なものであった。これを「フランス型」と言えるか否かはさておき、日本のオケからこういう音が聴けるとは、正直言ってまるで思っていなかったため、驚倒したというところが本音である。
 演奏も、この明晰な音を最大限に活かしたもので、各パートがくっきり聴こえるサウンドを活かして、かなり色彩的な演奏を目指していた。……ドビュッシーマーラーはともかく、シューマンですらそうだったのだから、私の驚きは理解いただけるものと思うのだ。しかし一方で、楽曲の流れはとてつもなく滑らか。輪郭のくっきりした音たちが、総体としては非常にスムーズに流れて行く演奏なのであった。目から鱗がボロボロ落ちて行ったなあ。
 と、サウンドおよび横の流れだけで結構字数を費やしてしまったが、プログラミングも無論素晴らしかった。見るだけで「うわあやりたい放題」と思える曲目は、実はなかなかない。ドビュッシードビュッシーでも、決して劇的とは言いがたいオペラから他人が一部を抜粋・編曲して一つの楽曲にした1曲目、三十年代の自作映画BGMの素材を使って由緒正しい形式を備えたヴァイオリン協奏曲に仕上げた2曲目、巨大なオーケストラのための音楽を二管編成の中型オケでも弾けるように他人が手を加えた3曲目、そして最後は、有名曲だが通常演奏される版ではなくその初稿を取り上げた4曲目と、いずれも一筋縄では行かない作品ばかりである。裏テーマは多分「愛」で、1曲目は言うまでもなかろうし(わからなければ「ペレアスとメリザンド」でググれ)、2曲目の素材は各種映画での愛のテーマが多用されており、3曲目は愛そのものズバリではないが花の音楽なのでうっすらとその関係性が窺えるのではないか。最後のシューマンだけは恋愛と直接の関係がないけれど、これは「形式にとらわれない20世紀音楽→ロマン派にルーツを持つ作曲家が20世紀中葉に形式に気を配って書いた音楽→終期ロマン派の破格の交響曲を中編成でも演奏できるように「制約」を付けた音楽」の後に、「中期ロマン派の代表作」を続けて演奏することで、実はこれらの間に関連性があること――少なくともまるで違和感なく聴けること――を立証したのである。シューマンの初稿がかなりモゴモゴしたオーケストレーションになっていることも、効果を倍加したものと思われる。指揮者とオケが、ドビュッシーは丁寧に、コルンゴルトはノリノリに、マーラーは密やかに、シューマンでは再びノリノリに演奏してコンサート全体で隈取を付けていたのも忘れがたい。実に良い演奏会であったと共に、「進境著しい」と感じられた。これは来期にも期待です。
 オーケストラの挙げた成果があまりにも素晴らしかったので、これまで言及する機会を逸していたが、ヴィヴィアン・ハーグナーも見事な演奏を繰り広げていた。まっすぐな音を飛ばしているが、持てる技巧を誇示するタイプではなく、たいへん知的な解釈で、ややもすると悪い意味で映画音楽的になってしまうこの楽曲を見事にまとめ上げていた。カンブルランとの相性も抜群であったことを付記しておこう。……座った席の関係上、音が小さめに聞こえたのは否めないが……。