不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

ドイツ・カンマー・フィルハーモニー管弦楽団来日公演(横浜公演)

14時〜 みなとみらいホール

  1. シューマン:序曲、スケルツォとフィナーレ Op.52
  2. ベートーヴェン:大フーガ Op.133(弦楽合奏版)*1
  3. ベートーヴェン交響曲第5番ハ短調 Op.67
  4. (アンコール)ブラームスハンガリー舞曲 第5番
  5. (アンコール)ブラームスハンガリー舞曲 第6番

 非常に快活な演奏だった。白眉はやはり後半の5番で、運命動機が速いテンポで極めてリズミカルに提示される冒頭から、美しい響きに満ちた第二楽章、速いテンポで《象の踊り》をキリキリ舞させるスケルツォ、凱歌というよりはダンスのようなフィナーレと、最初から最後まで楽しく、そしてとてもスリリングであった。高いテンションで一貫していたのも素晴らしい。むろん、苦悩・闘争を経て歓喜へという楽聖楽聖した観念を全人類規模で歌い上げねばならない、などと言っている化石人間には、この演奏はやや軽かったかも知れない。しかしこの活力は本物であり、この偉大な作曲家をより等身大の姿で見せてくれたことにもなるだろう。この場合、「等身大」は落ち着いているとかそういう雰囲気を意味していない。等身大の人間だって理想を語るし熱くもなるし、人を畏怖させることすらありますよね。私が言っているのはそういうことである。
この演奏の後に、ブラームスハンガリー舞曲というアンコールも――通常は「またか」という曲目であるにもかかわらず――非常にしっくり来るものとなった。故岩城宏行は、あるエッセイで、ベーム指揮ウィーン・フィルの《運命》の後にアンコールとしてワルツが奏でられた際、次々と客が席を立って行った(理由:この偉大な《運命》の後にワルツなんか聴いてられねえ!)エピソードを紹介し、さすが本場、アンコールをねだってしつこく拍手する日本の聴衆とは違う*2と書いていたが、そのような《良識》は、ベートーヴェンが「偉大なる楽聖」という歪んだイメージに囚われていた時代にしか通用しないものだと思う。ヤルヴィのベートーヴェンであれば、その後にあっけらかんとリズムを崩した楽しい舞曲があっても、誰も違和感など覚えないに違いない。
 前半のシューマンも同傾向の演奏で楽しみましたが、ベートーヴェンの印象が強すぎて記憶が薄れております。指揮者を置かずに奏でられた《大フーガ》は、コンマスが大きな身振りで出していた各セクションへの合図に基づき、見事な合奏を繰り広げていた。ただし、原曲の弦楽四重奏版ではないためか、弱音部での緊張感がやや希薄になっていたように思われる。まあこれは致し方ないか……。
 最後に。ドイツ・カンマー・フィルは、どの曲目でも舞台上ではチューニングしてませんでした。彼らは一体どこでチューニングしているのか……。舞台裏ってわけでもなさそうだったしなあ。

*1:指揮者なし。

*2:むろんこの見方は一面的であり、かつ思い込みが激しい。単純に素晴らしい演奏を賞賛しているだけで、アンコールをねだっているわけではないかも知れないではないか。また岩城氏に限らず、素人の方の感想をblog等で漁っても、聴衆の反応を「勝手に」解釈していることが多々見受けられる。長い拍手はアンコールを求めてのものだとか、楽章間でのタイミングを見計らわない咳払いは(その聴衆が単なる馬鹿もしくは体調が単純に悪かった等の可能性があることを無視して)演奏に対する抗議の表明であるとか、演奏終了後、結構でかい音で終わる曲だったにもかかわらず最後の静寂が保たれたのは(単に余韻を味わっているという可能性を無視して)演奏があまりにも変だったから戸惑ったことの証拠だとか……。こういう得手勝手なことを書き散らす馬鹿がいるから、素人の感想はいつまでも玄人筋に馬鹿にされ続けるのである。