不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

ミシェル・ベロフ ピアノ・リサイタル

19時〜 紀尾井ホール

  1. シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D.960
  2. ヤナーチェク:ピアノ・ソナタ第1番「1905年10月1日、街頭にて」
  3. ドビュッシー:ベルガマスク組曲
  4. バルトークハンガリー農民の歌による即興曲op.20
  5. (アンコール)シューベルトハンガリーのメロディ ロ短調 D.817
  6. (アンコール)ドビュッシーアラベスク第1番
  7. (アンコール)ドビュッシー前奏曲集第1巻より《亜麻色の髪の乙女
  • ミシェル・ベロフ(ピアノ)

 20世紀以降の著名演奏家は、キャリアが長くなればなるほど、実演が残酷なものになっていきます。というのも、我々聴き手は演奏家のイメージを著名演奏家が盛時に入れた録音で形成するからです。演奏家も人間なので加齢等によりメカニックがどうしても落ちて行くもの。そして特にヴィルトゥオーソは、実演と、メカニカル面で全盛期だった頃の録音を比べられてしまい、衰えたと言われるわけです。むろん加齢等によって深まるもの――「音楽性」と曖昧に表現されるアトモスフィアや、弾き込んだ楽曲への「解釈」――はあるんですが、これらはなかなか目立たず、聴き手はミスタッチ等のメカニック面での瑕の方に耳が奪われがちです。マウリツィオ・ポリーニとかは本当に大変そう&可哀そうだなと思います。背が丸くなってる爺様に、70年代のあの《エチュード》や《ペトルーシュカ》求めても無理というものである。代わりに解釈が深まってるけれど、誰も聴いちゃいねえ。
 ミシェル・ベロフは1950年生まれフランスのピアニストです。まだまだ老け込む年齢ではありませんが、70年代までにEMIに入れた録音で魅せた、切れの良いテクニックで名声を確立した一だけに、上述の「残酷」な聴かれ方がされかねない。まあ80年代に一時右手を痛めて事実上リタイアしていた頃もあるので、聴き手の方もそれなりに覚悟はして聴きに行くんですけどね。
 結果としては「前半はやや不調、後半は十二分にテクニックで魅せた」ということになりました。最初に予告されていた曲順を変えて、元は一番最後だったシューベルトを最初に持って来たのだが、第一楽章が妙にもっさりしていたし、強音が割ととんがる人なんで、曲趣に合わない部分が多々見受けらた。曲がまだ手の内に入っていない印象すらあり、ミスタッチも結構あって、「おや?」と思った。ただし第二楽章で見せた沈み込むような空気感は本当に見事。後半への期待をつなげました。
 その後半は一転して、自家薬籠中の曲目ということで、キレのある演奏が楽しめました。ベロフはヤナーチェクピアノ曲全曲演奏をやったことがあるらしいんですが、それも納得の説得力の強い演奏である。シューベルトの第二楽章で見せた暗い歌を、もっと苛烈にしたような演奏で、素直に感動しました。というかこの曲、こんなに良い曲だったのか。続く《ベルガマスク組曲》は本当に手慣れたもので、キレとコクを両立させた見事な演奏でした。陳腐な言い方をすると、まるでシャンパンのような味わい。正規プログラム最後のバルトークは、意外と「歌」を強調した演奏で、なるほど民謡ベースの作品なのだということを痛感いたしました。バルトークハンガリー民謡を曲に取り入れたケースが多いんですけれど、サウンドそのものはモダンモダンしているので、聴き手はこれが「歌」であることを忘れがち。その点でベロフの解釈はなかなか興味深い。
 ベロフはアンコールでも好調を維持し、私は大変満足して家路に着くことができました。平日に行った甲斐があったというものです。右手の故障云々は、本日の演奏を聴く限りまるで感じられませんでした。一体どういう故障で、それをどう治したのか興味があるなあ。口さがない人々は、アルゲリッチに振られてリストカットしたとか言ってますが、まあそれは完全にデマでしょうね。