不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

七人の魔道師―グイン・サーガ外伝1/栗本薫

 外伝その1となる本書が出た時点で、グイン・サーガ本編は5巻までしか出ていない。その本編では、グイン自身は未だ中原では無名であり、その身は現在辺境のノスフェラトゥにある。イシュトヴァーンと行動を共にし、人間関係の割れ目は今のところ生じていない。なお5巻終了時点で本編は一服しており(グイン一行が、モンゴール遠征軍を相手に辺境で一定の勝利を収める)、作者ないし編集者は、外伝の第一巻を出すにはちょうどいいタイミングだと判断したのであろう。*1
さてそんな本書で語られるのは、本編第5巻の恐らくは十余年後、グインがケイロニアの国王に即位した後の物語である。ケイロニアの政治体制は明示されていないが、他に皇帝がおり、皇帝を目上の者として扱うグインのセリフがあるので、皇帝が義父に当たるという事情はあるものの、恐らく「皇帝>王」の身分秩序がある国家なのだろうと推察される。ただしケイロニアが、皇帝が支配する国家をさすのか、その下でケイロニア王に任された所領を意味するのかは『七人の魔道師』を読んだだけではわからない。本編で既に強国としてケイロニアの名前が出ているので、恐らく前者であろうとは思うのだが……。
 物語はケイロニアの都・サイロンで疫病が流行し、その打開のためグインが大魔道師イェライシャのもとを訪れる。イェライシャはヤンダル・ゾッグの介入を示唆し、そして話はいつの間にか魔道師たちのグイン争奪戦*2へ……。
 本書で描かれるのは魔法による対決で、これは少なくとも本編では第5巻に至るまで強調されていなかった事項である。このファンタジー的な意義は鏡明の解説で、既に全く付け加えるところがないほど見事に触れられている。要約すると、これほどまでに魔法の力を全開にした小説は実は少なくて、それに日本のファンタジイが正面から挑戦したのが素晴らしいということである。ファンタジーはほとんど読んでいないので、識者にそう言われたら「そうですか」としか言いようがない。ただ物語と文章に大変な躍動感があるのは確かで、めくるめく魔法の乱舞が、本編の第5巻までの手堅い歩みにはなかった感興を生み出している。エルリックによる流麗を極めた呪文詠唱シーン、とんでもない事態を実に端的・端正に描き出した《ダークホルム》シリーズの魔法発動シーンの方が好みとはいえ、これはこれで素晴らしい仕事であると思う。特に、作品の大部分で魔法が発動しっぱなしであるという点には要注意だ。この他、意外な小ネタを用意して読者を驚かせようとしたり、グインと踊り子の恋を持ち出すなど、大盤振る舞いである。普通におすすめできる娯楽小説として高く評価したい。
 なお本書は、サーガを読み進める上で重要な役割を担っていると思われる。作品内の出来事は、本編第5巻から実に十余年後ということで、他の登場人物の動静にもちらちら触れて、本編のヒントを大量にばらまくのだ。100巻完結を謳われた本編がまだ5巻の段階でこういうことされたら、リアルタイム読者は鼻血噴いただろうなあ。こういうところは(少なくとも当時は)天才的にうまい作家だったのだなと思う。
 ただし不満はないでもない。地の文・台詞とも、ちょっと大げさな表現が多いのは気にかかる。登場人物や事象に、むやみに驚いたり感心したり誇張したりするのだ。作品内の事物が本当に凄いことなのかどうかは、読者が判断すべきであり、「こう思え=地の文で書いているとおり感心しろ」などと作者に指定されたくはない。登場人物の台詞も、やり過ぎると同じ反感を読者に抱かせてしまうと思う。またラン=テゴスの扱いがなあ。この名前の神を出しておきながら、次元が違ったら手が出せないような惰弱な神なんですかそうですか。何かこう、もっと外なる神への敬意をだな。でもヨグ=ソートスでこれじゃなかったのがせめてもの救いか。

*1:などと大口を叩いておいて、刊行時期を勘違いしていたら目も当てられぬわけだが……。(追記:やっぱ間違っていたらしい。というか雑誌掲載が初出でそれがもっと前だったということ。コメント欄参照)

*2:もっとも非BL的なので、あっち系が嫌いな人も安心して読めます。