不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

蜘蛛の巣/ピーター・トレメイン

蜘蛛の巣 上 (創元推理文庫)

蜘蛛の巣 上 (創元推理文庫)

蜘蛛の巣 下 (創元推理文庫)

蜘蛛の巣 下 (創元推理文庫)

 7世紀のアイルランド、アラグリンの谷で、周辺を支配する氏族の族長エベルが殺された。亡骸の傍らには、目も見えず耳も聞こえず、口もきけない青年が、血まみれの刃物を握りしめて立っていた。彼は犯人と決め付けられ、投獄されてしまう。だが、マンスター国王の実妹にして裁判官の修道女フィデルマは、納得できないものを感じていた。族長の後継者とされる若い娘、ローマ・カソリックの流儀を信奉する神父、年老いた隠者などなど、多士済々のキャラクターが大挙して登場する中、フィデルマは気の合う修道士エイダルフと共に事件の謎を解くべく奔走する。
 このシリーズ最大の特徴は、7世紀のアイルランドを舞台としたことである。この時代の西欧では、キリスト教こそ主流になっていたものの、カソリック(ローマ教会)が全体を統括しているわけではなかった。アイルランドに関しても、布教しやすいように古来の土着宗教に合わせた形で、今とはかなり違うスタイルで信仰されていたようだ。またそもそも、カソリックにしてからが、この時期は聖職者の結婚の可否すら正式決定できていない*1。何せ1400年も昔の話、地球上にはカール大帝楊貴妃すら影も形もないわけで、全てが今とはあまりにも違う。おまけに舞台はアイルランドとかなり辺境である。断言しよう。世界史マニアを除き、普通の読書人は、このようなヨーロッパは見たことがないはずだ。日本語版wikipediaにも、この時代のアイルランドを書いた項目がほとんどない(アイルランドの歴史でも、この時代は記事が省略されている)。とてもマイナーであるがゆえ、我々の多くは、新たな世界を覗き見るような感覚で本書を読むことができるはずだ。
 その世界の中で、ときに深遠に繋がるような神学的会話を交わしつつ、活き活きと探偵活動に勤しむフィデルマの姿は、なかなかに印象深い。カソリック修道士に淡い想いを抱いているっぽいのも可愛くていいではないか。時代風俗も極めて鮮やかに描き出されており、その真偽を検証する知見を私は持たないが、単純に面白く読めるのは確かだ。ストーリーテリングも上等だし、登場人物の造形も非常にうまい。だが読みやすいだけの作品ではなく、随所でアイルランドの良き伝統(=旧価値観のうち公正なもの、フィデルマはここ)、カソリックの流儀(=新価値観)が衝突し、物語に深みを与えている。悪が新旧どちらかに片寄せされていないのも、作者の見識を証明する事項となるだろう。
 ミステリとしての出来が水準を出ないこと、主人公フィデルマがオールマイティー過ぎること*2、法が公正だとしてもその執行状況が本当にここまでマトモだったのか疑問に思われるなど、瑕がないわけではない。しかし本書は抜群のリーダビリティと世界描写能力に支えられた、最良の歴史ミステリの一つである。食わず嫌いで済ませるのはあまりにも勿体ない。広くおすすめする次第である。

*1:結婚すると渋い顔はされたらしいが。

*2:とても偉い法曹家+王女+美女で、おまけに防護術の達人というのは明らかにやり過ぎではなかろうか。