不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

オリンピックの身代金/奥田英朗

オリンピックの身代金

オリンピックの身代金

 昔、星新一が何かのエッセイで、こんな話を思い付いたと書いていた。ある男が罪状もはっきりしないまま、いきなり警察に捕まり、何日か拘束されてしまう。そしてこれまた唐突に釈放されるのだ。ラストはこう締め括られる。「そう、終わったのだ。東京オリンピックが」つまり警察は、東京オリンピックを滞りなく開催するため、この男のように少々反体制的な人物を、法的整合性など二の次にして、身動きできなくしていたのである。星新一は、当時の熱狂から、このような話を思い付いたのである。むろん星新一は、時事ネタで作品を書かないというポリシーのもと、これを実際に書くことはなかったのだが、読書好きたちに当時の雰囲気を伝えるエピソードではあろう。
 第二次世界大戦でボロ負けした日本が、再び一等国に返り咲く――その証拠が、戦前期の日本も為し得なかったオリンピック開催だったのである。だから国民は準備した。協力した。待ち望み、熱狂した。しかし光あるところに影あり。華々しい祭典に向けての心躍る準備、多くの人々が抱く輝くばかりの誇らしさの影に、「にもかかわらず」苦しむ人々がいる。一等国である「にもかかわらず」一向に暮らし向きが楽にならない人々がいる。真の一等国は国民全てを幸福にするものであって然るべき、という理想は、歴史上かつて一度も実現していない。国が豊かになっても、国民個々人の富には偏差がある。平等など名ばかり、下から見上げたときの格差のありようは、まさに圧倒的な壁として個人の前に立ちふさがるのである。
 だが、そうであってもなお、東京オリンピックは皆に望まれていた。搾取する側もされる側も、等しくオリンピックを楽しみにしていたのである。自身が「影」にある人々ですら、オリンピックよりも先にすべきことがあるはずだ、などとは言わない。そればかりか、大半が、オリンピックを心底待ち望むのである。我がこととばかり、誇りにすら思うのである。
 その現実を許すことができなかった男――それが本書の主人公である。彼の名は島崎国男。秋田の貧しい農家から上京して来た東大生(院生)で、実家の様子と東京の華やかさのギャップに、当初は「笑うしかなかった」人物だ。そんな彼の元に、東京に出稼ぎに来ていた長兄が、作業中に事故死したとの知らせが届く。葬儀のために郷里に帰った国男は、地方の貧しさと前近代的な人間模様を改めて痛感する。そして帰京した国男は、兄が働いていた建設工事下請会社でアルバイトを始める。だがそこには、劣悪な労働環境とそれを感受する労働者たちがあった。搾取されている自覚もなく、日々懸命に生きる人々のリアルな姿を前に、国男は大学生たちが叫ぶ革命など夢想に過ぎないと悟る。そして百姓も土方も、華々しいオリンピックと自分たちが無関係であることに薄々感付きつつも、それを望む。彼には、その現実が許せなかった。だから彼は職場で余ったダイナマイトを盗み、東京オリンピックを妨害すると国を脅迫して金をせしめようと決意する。
 この他、テレビ局員や刑事が視点に据えられる。多視点から描かれるのは、昭和39年、戦後日本史において燦然と輝くあの大イベントの影に他ならない。若者の爽やかな正義感は、オリンピック中心主義と、貧困層の無教養・無理解という現実の前に、膝を屈する。かくて彼は屈折し、若い血潮を抑えることも出来ず、極めて短絡的に、「オリンピックの身代金」事件を発生させるのだ。
 誤解してはならない。本書は、社会正義を声高に主張する作品ではない。島崎国男は革命を望むわけではない。むしろ革命はかなり最初のほうで諦められ、結果ヤケクソになり、主人公は爆弾魔になってしまうのだ。本書のラストはかなりグダグダなのであるが、この結末は物語には相応しかったと思う。歴史は割り切れない。現実は割り切れない。オリンピックを開くような一等国にも、影はある。大いにある。そしてそれらは決して是正されないのである。その砂を噛むような感覚を、本書は全編に渡ってはっきり打ち出している。だからラストもこれでいいのだ。
 なお「革命の非現実性」が最初からはっきりしているので、イデオロギー論が過剰に語られることもない。そしてここには、紛れもなく、高度経済成長期の光と影があるのだ。……にもかかわらず、リーダビリティが高くて、キャラクターの味付けも泥臭くないし、エンターテインメント小説として面白く読める。これは、この時代が既に「歴史」になったからだろうか。同時代作品だったら、もっと重い、深刻な話になっていたと思うんですよね。
 というわけで、これはお勧め。去年の伊坂幸太郎ゴールデンスランバー』同様、「早速、年度ベスト候補が出て来やがったな」という感じです。