不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

運命の日/デニス・ルヘイン

運命の日 上 (ハヤカワ・ノヴェルズ)

運命の日 上 (ハヤカワ・ノヴェルズ)

運命の日 下 (ハヤカワ・ノヴェルズ)

運命の日 下 (ハヤカワ・ノヴェルズ)

 1919年ボストンで実際に起きた警官のストライキを題材とした小説で、主人公は前途有望の白人刑事ダニーと若者の黒人ルーサーの二本立てだ。扱われるテーマは労働権問題と人種差別問題であり、究極的には人間の尊厳が何たるかを問う物語と言えるわけだが、このテーマが物語に実に有機的かつ緻密に織り込まれているのである。たとえば、労働者の酷い待遇を克明に描いたり、黒人がリンチされて死ぬなどといった、「わかりやすいスキャンダル」を描き、そのインパクトでテーマを訴えかける――本書は、こういった手法を採っていない。ルヘインは今回、主人公とその周辺の人物をしっかり素描し、彼らが喜怒哀楽を備えた等身大の人間であることをまず明らかにする。その上で、本書は様々な、本当に多様なエピソードを積み重ねて(ざらに上下巻あるわけではないのだ)、人間の尊厳が必ずしも守られていないことを、多角的に浮き彫りにするのである。これがふくよかな筆致で実現されていることにも注目したい。そして我々読者は、ダニーとルーサーによる、確かな手応えがある人間ドラマと、その背景に1919年のアメリカそのものを見ることになるのだ。本書で示されるランドスケープは、本当に素晴らしいもので、野球をフックとして使用して同じくアメリカを展望したマイクル・Z・リューイン『カッティング・ルース』すらここまで鮮やかではなかったように思う。
 ルヘインとしても会心の出来のはずだ。S・J・ローザン『冬そして夜』、トム・ロブ・スミスチャイルド44』共に、本年度ベストの一角を占める傑作である。
 なお、歴史上の人物も多く登場するので、読了後色々調べると楽しいことも付言しておこう。間奏曲部分での視点人物を担当する一代の野球バカ、ベーブ・ルースは別格としても*1、当時の合衆国の大統領ウィルソン、若き日のジョン・エドガー・フーヴァー州知事にして後の合衆国大統領カルビン・クーリッジなど、ちょい役がけっこう豪華なのである。

*1:「警官がストライキする話なんだろ」と思って読み始めると、いきなりベーブが黒人たちと草野球を始めるのでびっくりするが、登場するごとに、待遇改善問題に絡めて、ルヘインは労働者と野球選手のイメージを意図的にダブらせており、アメリカ=野球の国というイメージの鮮明化に成功している。お見事。