不壊の槍は折られましたが、何か?

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グリーン・サークル事件/エリック・アンブラー

グリーン・サークル事件 (創元推理文庫)

グリーン・サークル事件 (創元推理文庫)

 中近東の実業家マイクル・ハウエルは、パレスチナのテロリスト首領サラフ・ガレドに協力を要請され、不幸にもこれを断れない状況に立たされる。しかし抜け目ない商人でもあるハウエルは、この窮地を脱すべく、ガレドに気付かれないように暗躍を始めた……。
 ガレドは一味の目的がはっきりさせないままハウエルを操ろうとし、ゆえにハウエルもなかなか効果的な手を打てないまま事態はずるする進む。ただしこの小説自体は、ハウエル自身が事後に《グリーン・サークル事件》なる世に知れているらしい事件を振り返って述懐する、という形式を取るため、「最後には変な事態が白日の下に晒されるらしいが、それは一体何か?」と、読者としては気になる。これが一種の対読者餌として機能するのだ。ハウエルとその会社が社会的非難を浴びる結果になることすら最初から明らかにされており、HIBK派のような思わせぶりな記述も頻出、アンブラーはなかなかに策士である。
 作品全体を通して見れば、70年代当時の中東情勢が非常にリアルに描かれている。ただしここで注意すべきは、国際政治情勢を巨視的に俯瞰して世界的大陰謀がスケール豊かに展開される、という風格の小説ではない点である。よくよく考えると当たり前だが、シリアやレバノンイスラエルに住む人々にとって、中東問題は「すぐそこにあるもの」、言い直せば日常の延長にある。ゲリラや秘密警察、近隣諸国の陰謀、一触即発の軍事的均衡、そして後の世においても世界史の授業で語られるような対立構図は、日常から実になだらかにつながっており、行こうと思えば簡単に行けるし、ちょっと強要されればこれまた容易にその世界に入れてしまうのだ。《グリーン・サークル事件》のような国際謀略に関与するのに、何もルビコン川を渡る必要は一切ないのである。
 何が言いたいかというと、本書は結構地味に見える小説であるということだ。アクション・シーンはほとんどないし、途中展開も躍動感に満ちているわけではない。しかし堅牢な構成が作品をしっかり支えており、こくのある物語が実現されている。落ち着いた雰囲気で進みながら、謀略の不安が通底する小説――それが謀略小説の本質であると思う。『グリーン・サークル事件』は間違いなく、その代表作品の一つなのだ。いや、エンタメエンタメしたバー=ゾウハーとかもそれはそれで素晴らしいけどね。なお、落ち着いている分、人物造形も彫りが深い。テロリスト・シリア政府要人・イスラエル秘密警察などと対等に会話しようと頑張るハウエルの姿は、地味だしカッコよくはないが、一大事業家としての意地が鮮やかに感じ取れて、非常に印象に残る。頭脳戦の要素もあることを付言しておこう。
 というわけで、本書は国際謀略小説好きには強くおすすめしたい作品である。もっと、国際謀略小説好きならば、CWA受賞作だが何故か未訳だった本書にはすぐ飛び付いているはずである。彼らだけに独占させるのは勿体ないので、「エリック・アンブラーって聞いたことある名前だけど、誰?」と思っている人もこれを機会に試してみればいかがでしょうか?