不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

タンゴステップ/ヘニング・マンケル

タンゴステップ〈上〉 (創元推理文庫)

タンゴステップ〈上〉 (創元推理文庫)

タンゴステップ〈下〉 (創元推理文庫)

タンゴステップ〈下〉 (創元推理文庫)

 54年間、眠れない夜を過ごしてきた元警官のモリーンは、老境に至って森の中の一軒家で住むようになっていた。その一軒家で、モリーンは無残に殺される。現場には、まるで彼が死の直前にタンゴステップを踏んでいたような血痕が残されていた。モリーンに昔指導を受けていた37歳の警官、ステファン・リンドマンは、モリーンの死亡記事を読んで、彼の死の謎を探ろうと、舌癌の治療休暇を利用して単身現地に向かう……。
 警官ステファンは、自らの死病の影に怯えつつ、知り合いであった元警官の殺害を、担当でもないのに調査する。その入れ込み度合いたるや、恋人との関係が破綻の危機を向かえるほどである。しかしこれが闘病からの逃避に過ぎないことは、死への恐怖感が随所に示されることからも明らかである。癌は別に末期でもなく、放射線治療によって何とかなる程度のものであり、舌を切除する必要も特にないのに、全く何と肝っ玉の小さい男であろうか。だがこれが実に人間臭くて、いいのである。
 一方、事件そのものには人種差別の色合いが濃い。第二次世界大戦期に顕在化したスウェーデンのナチは、戦後雌伏し、ネオナチ勢力を白眼視しつつ、そして他人種が揚々と生活している(とナチが思っている)のを内心苦々しく思いながら日々を送っている。移民等々を受け容れた結果、他人種に対する憎悪が噴出し始めている世相を敏感に反映している。また、作中の1999年においてもなお、1945年に終結した戦争とナチス・ドイツが、ヨーロッパ社会に影を落としていることも明らかにされるのである。これらの要素が、本書を読み応え確かな社会派たらしめる。
 ストーリー展開はあっちへ行ったりこっちへ行ったりで、なかなか一筋縄では行かないが、実に適度なタイミングで新事実が判明して行き、読者の興味を惹き付ける。過度に文学めいた筆致にも陥らないので、娯楽小説の範疇で読解可能なのもありがたい。多数の人物に事情聴取する過程で、本筋には関係が薄いかも知れないものの、証人たち各々の人生の断面が見て取れる(切り取り方も鮮やか!)という、警察小説の醍醐味にも欠けるところがない。実に素晴らしい作品であり、今期を代表する海外ミステリとして、大いにおすすめしておきたい。
 なお、表紙の構図に共通性があり過ぎて勘違いされるかも知れないが、『タンゴステップ』は《クルト・ヴァランダー》シリーズの作品ではなく、独立している(端役の登場人物は共通しているが)。『殺人者の顔』から始まる5策の《ヴァランダーもの》を読んでおく必要は全くないので、ものは試し、『タンゴステップ』でこの作家を初体験してみませんか?