不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

限りなき夏/クリストファー・プリースト

限りなき夏 (未来の文学)

限りなき夏 (未来の文学)

 ジーン・ウルフに代表されるように、娯楽小説と評価され得るジャンル内でも、作品内でわざと全てを語らず、何らかの要素を読み手の解釈または想像に委ねる作家が存在する。作品には曖昧模糊とした余白が出て来るわけだが、筆致がふくよかな場合、その余白からえもいわれぬエモーションが立ち上がることがある。プリーストの諸作はその最たるもので、作品の勘所では絶妙な感傷をまとう。しかも読みやすいのが素晴らしい。
 この『限りなき夏』は8編の短編を収録している。いずれもプリーストの本領が発揮されており、実に楽しく、同時に実に味わい深い。愛をテーマにした作品が多いため、あざとくならない範囲での感傷性が、物語に潤いを与えていることにも注目したい。以下各編にコメントするが、いずれにせよ、短編集『限りなき夏』は傑作揃いである。基本的には読みやすいので、広く、そして強くおすすめしたい。
 人によっては味付けが甘いと言うかも知れない表題作「限りなき夏」は、静止してしまった恋人たちの話である。これは幻想なのか現実なのかという底冷えした不安感が(これを主人公は自覚していないのでは?)通底しているのが素晴らしい。また、悲惨な戦争と切ない恋愛感情の対比が、物語に絶妙な興趣を添える。有川浩辺りと比較すると、戦争の活用方法が全く異なるベクトルに行っていてなかなか面白い。
「青ざめた逍遥」は、タイムスリップ機構を有する公園で見かけた、未来の美女に心奪われる男の物語である。主人公は少年から中高年になるまで、彼女のことを忘れられないのだが、想いが加齢と共に落ち着いたものになっていく様が本書のキモではなかろうか。時を越えた恋愛模様というと、主人公のストーカー気質が顕著であったリチャード・マシスンある日どこかで』が想起される。しかしかの作品との最大の相違は、主人公が《滅び》に囚われていない点であろう。『ある日どこかで』の主人公は死にかけていたしなあ。
 デビュー作品「逃走」は、本短編集の中にあっては異質である。世界に危機が迫る中、議員の男が国会議事堂を目指す。群集の邪魔が入り、主人公がそれに対しておこなうおぞましい結論が印象に残るが、しかし物語の結末はもっとおぞましいものである。プリーストの抱えるドロドロしたものがこれほど前面に出て来たのは(私の読書経験の範囲内では)結構珍しいものと思う。
 続く「リアルタイム・ワールド」では、ある実験場が舞台である。とんでも理論に基づいた実験と、それに絡めた人間模様の交錯がなかなか面白いが、次第に《世界認識》の差異と正誤を問う物語に変質していく。非常にプリーストらしい一編である。
「赤道の時」以降の4編は、《夢幻群島ドリーム・アーキペラゴ》シリーズの作品である。この世界では数千年にわたって戦争が続いており、《夢幻群島》は中立地帯で、それぞれの島には独自の文化が根付いている。ただしこれらは全てらしいで括られる。
「赤道の時」は、この世界を律する《時間の渦》を描くかなり短い短編である。情景描写だけで成立しているような作品で、筆致はやはり美麗だが、内容がちょっと煩雑である。だから人によっては、《夢幻群島》シリーズは七面倒臭い作品揃いじゃないかと身構えてしまうかも知れない。そういう人には――「後続のシリーズ作品は、非常に読みやすくなりますよ」と言っておきたい。なお《時間の渦》が本当にこの世界を律している現象なのかというと、若干疑問符が付く。他の作品では、これに矛盾しているとも取れる場面があったような……。
「火葬」では、故郷から逃げるように《夢幻群島》に移住してきた男が、そこで出会った若い女性アラニアと、当地の風習や慣習に悩まされる。異性と異文化は、人間には理解しがたきもの、しかしある程度は理解しないと色々大変なものでもある。《夢幻群島》の文化と主人公が慣れ親しんだ文化との差異が、たとえばレムが描くような異星間レベルで発生する絶望的なものではなく、着ているものも一緒、言葉も一緒、しかし心のすれ違いが生じる程度にはある、という設定であるところもうまい。日本国内で引越したり、転職したり、異なるコミュニティに顔を出したての頃には、こういう感覚はよくあるところだ。プリーストはこれを丹念に描き、じわじわと緊張感を高めていく。……しかし結局、主人公が理解できなかったのは、《夢幻群島》の文化なのか。それともアラニアの女心なのだろうか。ここが曖昧なのは、プリーストの面目躍如といったところである。
 次の「奇跡の石塚」の主人公は、叔父の死に際して遺品を引き取りに、《夢幻群島》へ向かう。出国する主人公を監視するため、若い警官が付いて来るのだが、この警官が若い女性であるところから、耽美的な恋愛ドラマが幕を開ける。主人公は二十年前、《夢幻群島》で性絡みの忘れがたい経験をしており、当時のエピソードが断続的に語られる。これも物語に耽美的・官能的な興趣を添えており、雰囲気に浸りながら読み進めていくと……その後は実際に読んで確認いただきたい。個人的には、収録作品中これが一番好きです。訳も本当に素晴らしい。
 最後の「ディスチャージ」は、脱走兵の物語である。徴兵されて(+記憶を消されて?)南の大陸での戦争に参加した主人公が、戦地に向かう途中《夢幻群島》に立ち寄り、娼婦の歓待を受け、この体験と(僅かに残った記憶にあった)画家の絵に揺さぶられて脱走し、《夢幻群島》で絵を描く。狂熱と何かに追い立てられるような焦燥感と緊張感が全編を覆っている。物語の大半の局面で、実際はそれほどでもないのに、主人公の内面は色々と差し迫っている。これは、彼に記憶がなく、また背景に戦争があるためだろうか。狂熱が支配する、不思議な一編であった。娼婦とそれを描いた画家、という何とも言えないエロスも効果をあげている。